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1977年9月下旬から10月上旬にかけて夏季休暇を取り8日間のフィリピン旅行を計画した。フィリピンはマルコス大統領の権力が強くミンダナオ島のモロ解放戦線、ルソン島山間部の新人民軍を除けば都市部は安定していた。しかし貧富の格差は大きく、一部の富裕層と大部分の貧民層に別れ、国家財政は出稼ぎ先からの送金によって成り立っていた。出稼ぎ先は男はサウジアラビアなどで肉体労働、女は香港、シンガポール等で女中などをしていた。
今ではフィリピンホステスなど日本の何処の町でも珍しくないが、その頃の日本では単純労働の外国人は就労は厳しく制限され、正式な歌手かバンド演奏者等以外は入国出来なかった。初めてのフィリピン訪問でマニラ、セブの二大都市とルソン島南部のレガスピを訪ねることに決めた。
東京−(航空機)−MANILA
MANILA−(列車)−CAMALIG ALBAY−(バス)−LEGASPI
LEGAZPI−(バス)−TABACO−(バス)−TIWI−(バス)−LEGAZPI
LEGAZPI−(航空機)−CEBU−(航空機)−MANILA
MANILA−(航空機)−東京
MANILA LEGAZPI 1 LEGAZPI 2 CEBU 1 CEBU 2 元のページへ戻る