旅先での人との出逢いについて
旅行中に町中を一人で歩いていると、人に話しかけられることが時々ある。話しかけてくる人はいろいろであるが、だいたいは男性からだ。若い女性からだと嬉しいが、そんなことはほとんどない。女性には反対に、此方から話しかけることになる。
現地の人と何らかの接触を持つことは、相手国を理解する事から言って、もちろん良い事に違いない。しかしそればかりでないのが世の中だ。ただ話しかけてきた人が、何を目的としているかが問題になる。珍しい異国人に会ったから、話してみたいという、単純な動機であれば何等問題はない。しかし旅行者から、何らかの金品を搾取しようと考えている輩もいる。ここは話しかけてきた人間の目的を、動物的勘で判断する必要がある。旅行とは日常生活から離れ、現地におもむき、何かを見る、又は体験する行為だが、反対に現地の人から変わった奴が来たと、見られる立場にある。日本人は旅先で同国人に会うと、そっぽを向くという話がある。国内においても、他人とは関わり合いがなければ話さないのが、都会での一般的な習慣だ。北米の人間は、初めての人でも相手を理解しようと気楽に話す。これは歴史的要因が大きいように思われる。新大陸で雑多な人間がいたから、そういう習慣が出来たに過ぎない。私でさえ、よその国の安宿に泊まるときには、出会った人がどういう性格の人間か、探りを入れる為に会話を持とうと勉める。
地方の小集落では、外国も日本も同じ様な物だ。ベルギーの田舎"HOUFFALIZE"に滞在したときには、街角で会う人ごとに目で挨拶をしたことがある。彼等にとって、私は相当珍しかったのだ。此の村ではパリ大学で日本語を勉強している女学生に会い、日本語の勉強を見に家を訪問したこともある。ベルギー東部の寒村"VIELSALM"のユースホステルでは、水泳合宿に来ている小学生のグループと一緒になる。彼等と食事も同じ席で取りながら、日本について質問責めになり、英語や、ドイツ語を話す子供が、他の生徒に通訳してくれるなど注目を浴びた。
ともあれ町中で相手から話しかけられた場合には、細心の注意を払い応じることになる。相手が商店や、チャイハナであればそこで休むことにする。
パナイ島イロイロ市にて
1979年10月初旬、1週間の休みを取りフィリピンへの旅に出た。ルソン島の"MANILA"にて、目的地パナイ島(MANILAから南方300km)の"ILOILO"へ行く船を捜す。しかしキャビンもない古い貨物船しか無く、何時出航するかも明らかでない。結局は航空機にて、手前の町"ROXAS"まで飛ぶことに決める。ROXASからは一日に一回は脱線するという、評判の鉄道(PANAY RAILWAYS, INC.)にて"ILOILO"に入る。"ILOILO"に入り3日目、その日も朝から雨が強く降っていた。ホテル近くの食堂で朝食を済ませ戻るときに、商店の入口近くにいた、丸顔でがっちりした体格の中年の男に呼び止められた。フィリピン人は比較的に小柄だが、この男は違うので少々警戒しながら男の話を聞く。
男は訛りの強い英語で「何人ですか」と聞いてきた。
私は「何人に見えますか」と今度は相手に問いかけた。
男は即座に「日本人ですか」と聞いてくる。
私は「そうです」と答えた。
男は「この町に日本人の男が一人いますが会いませんか」と聞いてきた。予定の無かった私は会うことを了解すると、男は直ぐに歩き始めた。私は警戒しつつ男の後に従った。この時日本人が何処にいるのか、私には不明であった。男は私の泊まっているホテル近くの、白く塗られた建物に向かって行った。その建物の入口は頑丈な鉄格子が全面を覆っており、中から扉は開けられ私達は中に入った。男は親しげに警察官のような制服を着た責任者らしき人物と話し、私をその男に紹介した。他の係員が建物の中庭の鉄格子を開け誰かを呼んだ。中庭には多くの男がいて此方を見ていた。
呼ばれて来たのは髪に白い物が混じり、無精髭を生やした、60代後半と思われる日本人の男性であった。彼が刑務所に入ることになった経緯は、次のようであった。「京都大学の化学工学科を卒業し、甘味料の研究をしている。フィリピンには約20年滞在していて、ジープにてフィリピンの山中を走り回り、甘味料に使える植物の採取をしていた。会社ではフィリッピン人の従業員を雇っていたが、この人物が不正を働き借金が出来た。この借金が支払えずに逮捕され、1年9ヶ月収監されている。借金は5000米ドル(約115万円)で、保釈金10000ペソ(約8万円)と、身元保証人がいれば刑務所を出られる。
現状は自分の持ち物は着ている服しか無く、食べ物にも不自由しているが、親切なフィリピン人が居て差し入れをしてくれている。しかし食事が悪く、体が衰弱しており、ビタミン剤の注射を時々打っている。
刑務所に入った当初は、日本人と言うことで石を投げられたりしたが、剣道の構えで相手を威嚇してからは虐めもなくなった。現在裁判は継続中で、日本大使館との折り合いも悪く、援助が受けられない状況である。弁護士はフィリピン政府派遣の人がついている。
現在此の件で本を執筆しており、丸善から出版される予定である。日本には子供が三人おり、二人は神奈川県にある自動車会社に勤めている。自分の弟や妹も神奈川県に住んでいる。
彼に会いに来たのは私で三人目で、ここへ連れてきてくれた人は牧師さん(LYRIE PIERUO)で、刑務所で奉仕活動をしている。」男は問わず語りに現在までの経緯を話した。異国の小都市での刑務所暮らしの寂しさをヒシヒシと感じさせられる出逢いとなった。私は此の男性と30分程話し、分かれることにした。別れ際に牧師さんの要請でいくらばかりかのお金を渡した。この時、私達を見守っていた収監されている男達の手が鉄格子から何十本も伸びてきた。
「フィリピン人は信用できない、仕事などをしようとするときには相手に現金を見せては駄目だ。」が彼の私への教訓であった。
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パナイ島の村を訪ねる
翌日はパナイ島の南部にある村を訪ねることにする。フィリピンはキリスト教徒(カソリック83%、プロテスタント9%)が国民の90パーセント以上を占める。何処の村にも立派な特徴のある教会が建っている。これらを訪ねるのがここでの目的である。"ILOILO"より"SAN JOAQUIN"へのバスに乗る。ところが"SAN JOAQUIN"は小さな町で、知らずに乗り過ごしていることが乗客との会話で判る。5kmほど乗り過ごしたようだ。直ぐにバスを降り、雨の中来た道を歩いて戻る。バスにでも乗り戻りたいと思うが、車は時々通るのみ、とにかく静かなところだ。道の両側は水田で、所々に農家がある。子供が合羽をかぶって歩いてきたり、猪豚が草を歯んでいる。時々聞こえる波の音や、鳥の鳴き声を聞きながらの長閑な旅行きとなった。
"SAN JOAQUIN"へは一時間ほどで着くが、教会とマーケットがあるのみの集落であった。その後バスに乗り"MIAGAO"、"GUIMBAL"を訪ね"ILOILO"へと戻る。
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旅の結末
翌日の早朝、飛行機で"SEBU"に飛び、"SEBU"から"MANILA"へは船にて向かうことにする。しかし此の船の中で会った男にカメラを取られることになる。残念ながら彼から教えられた教訓は、生かされずに終わった。また日本に帰国後、依頼された住所に手紙を送ったが、受取人不在で戻ってきた。