貧乏旅行の話

5.シベリア鉄道に乗る

強権国家と犯罪

島国からの脱出

横浜−ナホトカ

ナホトカ−モスクワ

モスクワ観光

ソビエト出国

強権国家と犯罪

 海外旅行に出かける前に必ず調べることがある。その国の一番新しい治安状況である。訪問国のどの地方にどの様な問題があるのかを調べることだ。犯罪多発地帯の位置を確認することでそういう場所に近ずかない事が一番の得策であるからだ。次に調べるのは犯罪の形態を知ることである。最近のスペイン等では首締め強盗が流行っているようだが、この様な犯罪に対す心構えを取ることだ。
 犯罪者も事情の解らない観光客をターゲットにしていれば市民からの批判も少なくてすみ好都合とも言える。余所の国に行って言葉も喋れず、無警戒で無知な観光客は最高の獲物なのだ。 

 皮肉なことに強権国家は市民犯罪が比較的に少ないように思われる。これらの国々では正しい犯罪統計の発表は余り期待できないことを加味しても言えることである。これは警察や諜報機関により市民が監視されていることや市民同士が監視している事の反映であろう。
 フランコ将軍時代のスペイン、社会主義体制下のソ連、自由化前の中国等は治安が良いことで知られていた。ところが最近のスペインにおける日本人旅行者の犯罪被害はヨーロッパ第1であり、現在のロシアは経済が破綻してマフィアがはびこり治安は悪く若い女性が売春婦として輸出されている。中国はもっと極端だ、旅行中にホテルで捨てた物まで忘れ物として戻るほどに安全であったが自由化と共に蛇頭がはびこり日本にまで進出して来ている。

 「強権国家には犯罪を犯す自由もない」とも言える。資本主義経済に近づくことは貧富の格差が拡大し犯罪が増加することに通じる。市民に職があればまだしもなければ犯罪に走るのは至極当然のことだ。弱者に対する配慮が出来るかその国の民主主義の力量が試される事になる。しかし日本ではホームレスを助けるよりも銀行を助けることに躍起になっている。この様な方策では更なる治安の悪化が懸念されるところだ。
 強権国家はそこに住む市民の自由が制約されている事は大きな問題であるが、皮肉にも旅行者には安全は良いことに違いない。

 今回この旅行記を書くに当たりシベリア鉄道の現状を調べてみた。シベリア鉄道の旅は余り人気がないようなのだ。航空運賃が安くなり長期間かかる鉄道の旅が一部のマニア以外には歓迎されていないことは当然として、治安の悪化も一つの要因になっているらしい。最近は中国や、モンゴルの人々によるヨーロパへの買い出しや販売にシベリア横断鉄道が使われている。
 2001年8月にシベリア鉄道経由でモスクワを訪問した北朝鮮の金正日総書記のように、専用列車であれば犯罪に巻き込まれることはないであろうが個人ではそうも行くまい。それよりも隔離された旅が楽しいとは思えない。
 

島国からの脱出

 新宿伊勢丹デパート近くの日本交通公社海外旅行窓口に行き、実際の旅行手配を開始したのは5月に入ってからであった。それまでに訪問する国々の資料集めをしていた。図書館に通い資料をコピー、政府観光局に行きパンフレットを集め、旅行案内書を読み、そしてだいたいの計画を作成して申し込みに向かった。

 1年を越える長期旅行になる予定で出発時は当然片道切符だ。この頃ヨーロッパへの航空運賃は高く一般的には安いシベリア経由が若者達のルートだった。これは横浜からソ連船に乗りナホトカに向かう2泊3日の旅だ、ナホトカからは国際列車に乗りハバロフスクに向かう。ここで多くの人は下車してバスに乗り市内のレストランに行く、その後郊外で飛行機に乗り替えモスクワに飛ぶ。飛行時間は約9時間、モスクワに最低1泊し、市内観光した後ヨーロッパの各地へ鉄道で向かう2泊3日の旅だ。これが一般的なコースで最短で8日間を要した。総費用は9〜10万円であった。

 日本からヨーロッパへの直行便は航続距離から不可能で、冷戦下でシベリアルートは解放されていなくアラスカのアンカレッジ、北極経由か南回りであった。ヨーロッパへの航空運賃は高く南回りの一番安い物でも片道14万円位はしていた。拘束時間の少ない北回りルートはもっと高かった。
 ただ単に飛行機でヨーロッパに飛んだのでは面白味がないとの思いがあり、社会主義国家ソ連の実状を垣間見る目的で時間のかかるシベリア鉄道を通して乗ることに決めた。しかし費用と日程の関係で訪問地はモスクワだけとなった。

 ソビエトの旅行は総て国営旅行社のインツーリストが手配し、自由行動は許されていない。更に外国人が訪問できる都市も限られていた。航空機、列車、バス、タクシー等の乗り物の手配からホテル、食事、劇場の観賞券まで手配していた。到着駅では係員の出迎えがありホテルへ荷物の搬送をしてくれる。これら総てが料金に含まれていた。目をつぶっていてもソビエト旅行は出来ると言われた所以である。しかし現地に到着するまで宿泊するホテルが解らない等問題も多くあった。
 私の場合もイルクーツク−モスクワ間の食事が含まれているか日本出発まで確認が取れていなかった。また旅行代理店がこのコースに十分な経験がなかったのも問題であった。旅行代理店からインツーリスト発信のテレックスの写しを貰い現地で料金を請求されたときにはこの文書を示せと言われていた。
 内容は「YRC 5.6 CONFIRMING ****** 13/8 ALL INCLUSIVE PRICE 153.80 RBLS」である。

 ソビエトの旅行はインツーリストの手配完了確認が取れてから領事館でビザの発給となる。それ以外の手続きも大変煩雑であった。ビザ申請の経歴書記入から始まり、入国時には荷物検査、税関申告書(カメラ、ラジオ、録音機、持ち込み外貨等の記入)、外貨交換証明書(再交換時に必要になる)等の手続きが必要であった。

 この頃の日本出国には持ち出せる日本円、外貨の制約があった。日本円は10万円まで、購入できる外貨は3000ドルでパスポートの最終ページに記録されていた。それ以上の外貨が必要な場合には特別な申請手続きが銀行で行われた。総ての旅行代金を日本で支払えば外貨限度額は土産代として使えたわけだが貧乏旅行者には縁のない旅行方法であった。

旅行費用
 横  浜−ナホトカ ¥29000(グレード6,食事代含む)
 ナホトカ−モスクワ ¥46000(ハードクラス、食事代含む)
 モスクワ−ウイーン ¥17000(2等、ウクライナ、チェコスロバキア経由)
 ホテル代      ¥10000(モスクワのホテル、食事、市内観光代含む)
 ビザ、手数料    ¥12000(旅行代理店への支払い)
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 合  計     ¥114000
 
交換レート
 1USドル=¥280
 1ルーブル=¥370
 

横浜−ナホトカ

 船が岸壁を静かに離れると共に風になびいていた色とりどりの紙テープが徐々に張られて長くなった。紙テープは更に張られて延びきり頼りなげに切れて水面に落ちていった。テープがプツンと切れる感触が緊張した指先にしばらく残っていた。そして大きく手を振っていた人々が段々小さくなった。手元に残っていたテープをデッキから海に流した。日本からのお別れだった。
 1973年8月11日11時30分定刻より30分遅れでソ連極東海運の5000トン級の客船 M/S F. DZERJINSKYは横浜港大桟橋を出航した。桟橋には学生時代の仲間7人と家族が見送りに来てくれていた。私には初めての海外旅行の始まりであった。

 当日は8時過ぎに出国手続きを済ませ10時近くに船に乗り込んだ。乗船手続きは1等サロン客室係デスクで行われていた。パスポート、予防接種証明書、乗船券を渡し船客カードを受け取る。インツーリストの職員にバウチャー、鉄道切符を渡した後荷物を持って船室に行く。船室は8人部屋で洗面所、トイレ、シャワー付であった。
 部屋に荷物を置き直ぐにデッキに出る、桟橋では家族と友人が待っていてくれた。紙テープを下へおろす。そろそろ出航と言うときに30分の遅延が船内放送で案内され緊張していた気持ちがゆるんだ。友達の1人が紙テープにアイスクリームを付けてくれる。これを引き上げて舐めながら出航時刻になるのを快晴のデッキで待った。

 船は横浜を出航して東京湾を抜けると日本列島に沿い太平洋を北上し津軽海峡に入る。津軽海峡を横切り真っ直ぐ西に向かうとナホトカに着く、2泊3日53時間の船旅である。乗船客はほとんどが日本人の若者であったがヨーロパへ帰る西洋人、ソ連国内旅行をする西洋人ツアーグループが乗船していた。

 先ず最初にしたことは船内の探検であった。アッパーデッキから船倉まで歩き回り船内を確認して歩いた。一通り歩いた後は自分の居場所を決めることだ。狭くて薄暗い船室より明るく風に吹かれるデッキが心地よい。後部甲板には小さなプールがある。日中はデッキに掛けて真夏の太陽を浴びて体を焼いたり、旅行案内書を読んだり、知り合った人々と今後向かう国々について情報交換して過ごした。希望と夢一杯の時間であった。
 
 津軽海峡近くでは海豚が船と並んで泳ぐのを飽きずに眺めていた。海豚は乗船客の注目を集めるかのように何度も水面に顔を出し、泳ぐ速度も船と同じなのだ。
 夜間の日本海を船は西に向かって進んでいく、水平線に白い光が見える。船が進み小さい点であった光が段々と広がり海上の深い闇を照らし出す。いか釣り船の透明で大きな集魚灯である。客船は乗組員の働く姿が見える程近くを通過し、客船の起こす波で漁船は大きく揺れている。

津軽海峡
津軽海峡

ナホトカ−モスクワ

 ウラジオストック−モスクワ間は約9300kmである。本来シベリア横断鉄道を通して乗車するにはウラジオストック発の列車番号1番のロシア号に乗る必要がある。その当時ウラジオストックは軍港で外国人入境禁止地域であった。その為外国人旅行者はウラジオストック北部のナホトカ港を利用し、ほぼ平行に走る鉄道でハバロフスクへ向かった。この列車番号3番のボストーク号はハバロフスクが終点でほとんどの乗客は駅到着後バスに乗り市内のレストランに行き、食事後市内を観光して郊外の飛行場へ向かった。

 シベリア鉄道にてモスクワに向かう外国人乗客はハバロフスク駅で下車し、駅舎2階のレストランにて昼食を取り、2時間後に到着するウラジオストック発の本来の列車に乗り換えていた。私と共に列車を乗り継いたのは30人余りで、その中に日本人は6名であった。北欧へデザインの視察に向かう輪島から来た男性2人、女性姉妹2人、男子大学生1人と私である。外国人は日本人の恋人がいるスイス人1人、オーストリア人1人、フランス人1人、カナダ人グループ、ドイツ人グループ、アメリカ人グループである。
 列車編成は2人用のソフトクラスと4人用のハードクラスに別れており、食堂車が中央近くに連結されている。トイレ、シャワー付の車両もあるらしいが私の乗った列車編成には残念ながらなかった。コンパートメントの割付も男女混成でロシア人と一緒であった。最初私の部屋は日本人3人であったが大学生が他の部屋から弾き出されて移ってきた。他の部屋も女性だけや、同国人同士の席替えをしていた。

 各車両には2人の車掌が乗車している。1人は中年の女性で夏休みなのか10歳過ぎの男の子と一緒であった。もう1人は二十歳過ぎの若い女性であった。彼女たちの仕事は部屋の掃除、ベットメイキング、お茶のサービス、そして出発の合図である。各車両には石炭給湯器が設置されおり、これがもくもくと煙を吐いていて窓を開けると室内にも入り込んできた。

 列車の運行は総てモスクワ時間で行われており、各駅にはモスクワ時間と、現地時間を表示する2つの時計が並べて設置されている。駅名はキリル文字で表示されていて私には読めない。到着した駅名も解らないのだ。
 この長い距離を牽引するのは蒸気機関車であり、ジーゼル機関車となり、ヨーロッパに近づくと電化されて電気機関車に変わる。大きな町に入るごとに列車は15分なり30分間停止する。停車時間を車掌に確認し駅舎などを見に行ったり、売店で食べ物を買ったりしていた。田舎の駅などでは頭にスカーフを付け赤ら顔で小太りなおばさん達がおのおのの野菜、果物、牛乳等を金バゲツに入れて線路脇で売っていた。
 列車出発の準備が整うと各車両で緑色の小旗が揚げられる。全部揃うと静かに汽車は動き出す。シベリアの駅のホームはほとんど低い物でヨーロッパに入ると高いホームに変わる。

 走り去って行く外の景色を眺め、行き交う人々を眺めるのも汽車の旅の楽しみである。シベリアの大地は緑の多い小高い丘があり、牧場があり、畑があり、森や林が続く豊かな緑に囲まれた土地である。丘の上に木造の小さな家が建っている。舗装されていない道を馬車が行く。地平線に沈む太陽を眺め、延々と続く大きなバイカル湖を見る。すれ違う貨車には戦車、トラック、ジープ、家畜車に軍人が乗っている。
 ある日行き違う列車に日本人女性らしき顔を見つけた。私は窓を叩いて合図を送った。彼女は気が付き目が会い、窓の開いている所まで2人が移動して話をした。モンゴル人の大学生で体育の大会でモスクワを訪問した帰りであった。
 駅に着くごとに人の乗り降りがあり出逢いがある。ある日二十歳位のスリムな美しい女性が乗車した。私は彼女の持つ青く澄んだ瞳、金色に輝く髪、白い肌に憧れを持った。私と大学生のM君は彼女に名前を付けた。わたしは「カチューシャ」と呼び、M君は「ナターシャ」と呼んだ。食堂車で会ったり、廊下で会ったりした。しかし言葉は通じなかった。ある朝彼女は会話を持つこともなく列車を降りていった。

 列車の中という限られた空間での楽しみはやはり食事である。食堂車には小太りのおばさんウエイトレスがいて日に3度通うので顔なじみになった。ボルシチ、黒パン、ジャガイモ、肉料理、デザート、シャンパン、ウオッカを味わう。しかし時間を間違えて食べ損ねたこともあった。
 食堂車のメニューはロシア語、フランス語、ドイツ語、英語、中国語の5カ国語で表記されている。定食になっているのではなく好きな物をメニューから選んで注文する。食券は朝食0.8,昼食1.8,夕食1.4ルーブルと金額が決まっているので注文した食物が金額に満たなければ差額をルーブルで支払ってくれる。食堂車には売店もあり酒や菓子などを売っている。

 シベリア鉄道の7日間を風呂なしで過ごすのは少々きつい物があった。エアコンが利いた車内であれば問題もないが開け放された窓からは石炭のかすや煙そして黄害もある。夕方には上段のベットのシーツには黒く汚れが着く。ある日車掌が髪を洗ったのを見て何処で洗ったかを聞くと、トイレの狭い洗面所との返事であった。
 女性のいるコンパートメントには日本人女性の履く小さなパンティとカナダ人女性の大きなパンツが洗濯されて風に揺れていた。

 ハバロフスクを出発して3日目9時過ぎイルクーツク駅に到着する。15名ほどのドイツ人、カナダ人グループはここで下車してバイカル湖見物に出かけた。私達は馴染みになった彼等と別れを告げ、更に列車に乗り続けナホトカを出発して6日目に大きく長い丘、森と林が続くウラル山脈を越へヨーロッパに入る。一緒に乗っていたオーストリア人のFLEDERICが「You look fast Europe.」と言って握手を交わした。モスクワまで後1日となる。

 社会主義国の鉄のカーテンとは何で有ったのか、自国の国民の利益を守るための秘密とは、たわいもない物を秘密として守ろうとしていたのではないのか、秘密を守る為に余所者は排除する、それは所詮権力者達の都合の悪い事実を自国民に知らせない一手段だった様に思われる。
 経済的に行き詰まった社会主義国は外貨獲得の一方法として観光客の受け入れを始めた。出入国税の徴収、食券の購入、観光の強制、ホテル宿泊、交通機関、ポータの手配これら総ての経費がインツーリストの発行するバウチャーに含まれていた。
 中国ではここまで制約はないがビザの発給料(約一万円)が高く、外国人料金があり入場料は処によって10倍、宿泊出来るホテルは高額で限られ、航空機、鉄道等の交通機関は一般料金に対し4倍の料金が請求された。
 ソビエトでは軍事施設、鉄道施設、空港、橋等の撮影は禁止され、列車で行き交う軍人や武器の撮影も禁止されていた。列車には専務車掌がいて車内を定期的に巡回していた。

シベリア鉄道
途中の駅で
 
車内の廊下
車掌と息子と日本人旅行者

モスクワ観光

 ロシア号はほぼ定刻に近い12時10分にモスクワのヤロスラフ駅に到着した。プラットホームにはインツーリストの係員が出迎えてくれた。11号車の車掌2人に別れを告げ、更にホームの途中で食堂車のおばさんに別れを告げた。日本を出発して10日目であった。

 ホテルは町の真ん中、赤の広場近くの古いホテルであった。その為部屋も大きく天井も高かった。客室には玄関があり、浴室は6畳位ある、寝室は20畳位の広さで真ん中にシングルベットがポツンとあった。他の大きな部屋にはピアノまでおいてあったという。日本でホテルが手配出来なかったM君と共に私の部屋に入る。まず最初にしたことは7日間の垢を落とすことであった。彼を最初に風呂に入れ私は荷物の整理を始めた。そして風呂に入った。入浴がこんなにも爽快であることを教えてくれた瞬間であった。体と髪を2回洗い更に洗濯をして一段落すると近くのクレムリンへ見学に出かけた。
 レーニン廊には長い行列が出来ていて直ぐに入れそうもないので止めにして聖ワシリー大寺院を見学する。

 翌日は午前中にスイス人のOTHEAMと3時間の市内観光バスに乗る。モスクワ市内の要所をバスで走り回る短い観光であった。
 M君は夜半ウイーン行きの列車に乗るためタクシーでベラルースキー駅に向かった。ホテル前でウイーンでの再開を約束して別れた。

赤の広場
聖ワシリー大寺院
 
クレムリン宮殿
レーニン廊

ソビエト出国(モスクワ−ウイーン)

 モスクワからウイーンへ抜ける鉄道路線は2系統がある。ポーランド、チェコスロバキアを通るコースと、ウクライナを通りチェコスロバキアを抜けてウイーンに入るコースである。前者は約32時間、後者は約42時間かかる。前者は2カ国のビザの取得が必要で結果的には高くなる。そこで時間はかかるが安いルートを私は選んだ。
 夕刻インツーリストのカウンターに行きウイーン行き列車の確認をする。スイス人のOTHEAMとはルツェルンで再会することを約束してホテル前で別れた。
 ホテルより手配されたタクシーに乗りキエフ駅へ向かう。ここからが言葉も通じない本当の一人旅となった。一人の旅行者にインツーリストの係員は付かない。タクシーで駅に降り立ち乗車する列車探しから始めた。広い駅構内をうろつき乗車する列車を見つけ、車掌に確認してやっと車両にたどり着いた。洗面所付の3段ベットのコンパートメントであった。シベリア鉄道の車両と比べると室内も綺麗で随分ましであった。18時に列車が動き出し他に乗客がいないことを確認して一番上のベットを今日の塒と決めた。食堂車では言葉も通じず、メニューもロシア語であった。ウエイトレスのおばちゃんが此方が困っているのを見て「ビフテキ」と言ったのでそれにした。

 朝方室内がガタガタするので目を覚ますと沢山の荷物を持った3人のロシア人が室内に入ったところであった。私は上段のベットより降りて太っているがひ弱そうな青年と話をする。ところが英語は通じず紙に絵を描いたり手繰りで意志の疎通を図る。彼はこれからイスラエルへ移住する家族の一員であった。今でも多くのユダヤ人がソビエトから移住していることを知りシオニズムという運動を意識させられた。

 列車はウクライナ共和国に入り豊かな穀倉地帯になった。丘の斜面で牛が草を歯み、川ではアヒルが泳いでいる。牛の番をしている少女が草原に寝ころんでいる。列車から見える景色は山、丘、草原、畑で緑豊かな広大な土地である。
 キエフを通り21時過ぎにチェコスロバキアとの国境の駅TS CHOPに到着する。早朝沢山の荷物を持って乗車した人々が下車するのを待っているとホームにいる金髪の若く美しい女性から英語で声が掛かる。「ルーブルを持っているか」と聞かれ「持っている」と答えると着いて来いと言う。荷物はそのままに私は彼女に従いプラットホームを横切り駅舎に入って行くと外貨両替所があった。彼女は人が並んでいるのを掻き分け当然の様に無視して窓口に向かいここで持っているルーブルを交換しろと言った。行列を造っていた人々にためらいながら私は持っていた全額5ルーブル余りを外貨交換証明書と共に差し出すと米国6ドルに交換された。

 彼女と共にホームに戻ると列車は走り去った後だった。私は事情が解らず恐怖で寒気を感じた。彼女は何も臆せず暗闇を指差しながら話し出した。しかし彼女の話す早口の英語は私には半分も理解できないのだ。それなりに理解した内容は列車は向こうに停車していると言うことであった。
 薄暗く細い線路脇の道を歩いていくと先程まで私のコンパートメントにいた青年とその家族に会った。ジェスチャーで闇を差すと向こうだと答えた。別れを告げて更に歩いていくと電灯に照らされて列車が止まっていた。その中から自分の車両を探し出すと気持ちが落ち着いて来た。

 列車は1両ごとに切り離されて4カ所の油圧ジャッキで車体が持ち上げられている。地面には4本の線路が走りワイヤーに引かれた台車が動いていた。ゲージ交換だった。毎日この様な面倒なことが繰り返されているのかと驚きで一杯になった。わざとレール幅が合わないようにしたのも歴史の必然で有ったのだ。しばらく外で作業を眺めた後に車両に乗り込む。
 総ての作業が終わり各車両が連結されると列車は駅へ移動した。出国審査官がコンパートメントに入ってきて荷物検査が始まった。ザックの荷物を座席に広げ更に袋の中身を確認した。検査書をもらい終わりとなった。列車が少し走り再度止まると係官が入って来た。パスポートを渡すと先程の用紙を持っていった。ソビエトのビザはパスポートに判を押す物ではなく、独自の用紙を利用していた。出国はその用紙を外しパスポートには何も残らない仕組みになっていた。
 
 5分ほど列車が走るとチェコスロバキアの入国審査となった。係官がドイツ語で「ドイツ語話せるか」と聞いてきた。私はドイツ語で「いいえ」と答えると係官は荷物を見ずに軽く足で蹴ってパスポートに入国印を押して出ていった。審査はこれで終わりであった。
 翌日の11時チェコスロバキアからの出国となった。3人の係官が入ってきてパスポートに判を押し残っていた出国記録書を持っていった。国境は一本の細い道の両脇に高い柵があり鉄条網で覆われていた。その周りは畑になっている。声の届く距離である。列車は歩くほどの速度で国境を移動しオーストリアに入った。ソビエト出国時の緊張感はここには無かった。

クレムリンカセドラル
クレムリン
 
クレムリン
ボリショイ劇場

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