クメール遺跡を訪ねる
2003年1月、カンボジアの首都プノンペンにあるタイ王国大使館、タイ企業やホテルに対し、暴徒による襲撃事件が発生した。タイ人女優がテレビ番組で「アンコールワットはタイのもの」と話したと報道されたのが事の始まりであった。それに対するフンセン首相による女優批判が事件を助長したとされる。
襲撃事件以降、両国の関係は悪化し、国境閉鎖、カンボジア駐在タイ人の本国引き上げ、大使の召還、カンボジア大使の国外退去命令へと発展する。
両国の関係はその後、女優の発言はカンボジア側の誤解により報道されたこと、襲撃された施設などに対しカンボジア政府による賠償金の支払いで最終的に決着をみる。この事件は長い歴史上でカンボジア人が、隣国タイ人に対し持っている感情の一面を表していると思われる。クメールの歴史はタイよりも古く、タイ(シャム)国の起源は13世紀に成立したスコータイ朝とされる。この王朝はクメール王国の属領として始まる。その後アンコール王朝の衰退とともにタイは領土を拡大する。14世紀中旬より軍隊の遠征、18世紀後半にはアンコール地方も領土として納めることになる。
タイ勢力に追われたクメールは、アンコールトムを後にしロベックへ移る。その後タイとベトナムに挟まれた形のカンボジアは両大国の脅威にさらされる。そしてアンコール地方がカンボジアに返還されるのは20世紀の初めとなる。タイの領土下になったアンコール遺跡群は長い年月の間に忘れ去られたわけではない。しかし1860年フランス人博物学者アンリ・ムオーにより、西欧社会に紹介されたことにより世界的に注目を浴びる。その後、フランスの統治下において多くの遺跡が歴史的価値を再認識され修復されている。現在もアンコールワットやバプオンなどの遺跡で修復工事が行われている。
この地域はベトナム戦争やカンボジア内戦など第二次大戦後の混乱で、長期間一般の観光客が訪問することは不可能であった。全世界を巻き込んだ二大勢力、アメリカとソビエトの冷戦が収束し、代理戦争も終わりを遂げ、東南アジアに平和が訪れる。私はクメール遺跡への訪問に子供の頃からの憧れと思い入れがあった。この地域はかつてインド文明、宗教の影響下にあった。東南アジア最大の遺跡群であり歴史的、文化的に重要な意味を持つ。これらの寺院は数百年の年月と莫大な費用をかけて建設されたものである。ヒンズー教の影響を受けたインド的な物にクメール独自の文化、様式が加えられている。巨大なこれらの歴史的遺構は人間の持つ力を私達に知らしめてくれる。しかも繁栄が永遠に続かないことも歴史は教えてくれている。
クメール遺跡で見た看板にカンボジア語と英語で書かれた言葉"I have pride to be born as Kumer"がかつて東南アジア最大の領土と勢力を誇った末裔としての自覚を促していた。タイ国内に点在するクメール遺跡は、タイ東北部イサーンの南部に集中している。この地はかつてクメール王国の領土であった。カンボジア国境周辺には、Prasat Phimai, Prasat Phanom Rung, Prasat Mueang Tam, Prasat Ra Muean Group, Prasat Si Khoraphum, Prasat Sa Kamphaeng Yai, Prasat Phra Wihan, 等がある。これらの遺跡の多くは帝国の首都アンコール方向を向き、さらに道路にて結ばれていた。
イサーン以外の地域にもアンコール様式の遺跡が存在する。スコータイにある"Wat Si Sawai"やペチェブリの"Wat kamphaeng Laeng"には、13世紀に建造された遺跡が残されている。タイ国内における多くのクメール遺跡は1970年代以降に大規模に修復され、現在は歴史公園として観光客招致に役立てられている。
2002年3月、私はタイ東北部イサーン南西部コラートに滞在し、プラサット・ピマイとプラサット・パノンルンを訪ねる。さらに2004年6月、イサーンの南東部の町"Ubon Ratchathani"に滞在する。カンボジア北部にある遺跡を訪問する目的であった。そのプラサット・プラ・ウィハンはタイ国側からしか訪問できない場所にある。クメールの歴史
802〜1431年 アンコール王朝時代、アンコール遺跡群が建設される1181年 アンコールトムを建設、1200年代初頭に完成
13世紀初頭 クメール帝国はベトナム、タイ、ビルマ南部、マレー半島全域を領土とする大帝国に発展する1432年 タイ(シャム)軍の大侵略により首都アンコールを放棄、ロベックへ首都を移す。その後、都をプノンペン、ウドンなど転々と変える
1431〜 タイ、ベトナムの両大国の脅威にさらされ、領土を割譲する
ヒンズー教、大乗仏教から小乗仏教への改宗が進み国民の神王崇拝が廃れる1775年 タイ宗主権下となる
1841年 ベトナム領となる
1863年 フランスの保護領となる
1887年 フランス領インドシナ連邦の成立
1907年 タイよりアンコール地方が返還、フランス領となる
1941〜1945年 日本軍の支配下となる
1953年 シアヌーク国王により独立アンコールワット (ANKOR WAT)
アンコールトムの南に位置し、1120年頃にバルマン2世により建設された。寺院は古代インドの宇宙観、世界の中心メール山を象徴化した物とされる。王の死後墳墓として利用される。アンコールワット(寺院の在る都城)は周囲5.4kmの正方形をしている。さらに幅190mの濠に囲まれている。東西南北に参道があり、ほぼ中央に寺院がある。寺院は二重の回廊に囲まれ、その中心に高さ65mの中央祠堂がある。中央祠堂は回廊と五基の尖塔を持つ。第一回廊は周囲760mで壁面に浮き彫りが刻まれている。浮き彫りは戦争絵図、軍隊の行進、天国と地獄、天地創造、ビシュヌ神と悪魔の交戦、など叙事詩的に描かれている。
第一回廊と第二回廊は十字回廊で結ばれ、十字回廊の周りには聖池が作られてある。第二回廊には浮き彫りはなく、中庭側に明かり取りの連子状窓が連なる。中央に高くそびえるのが中央祠堂である。上部は回廊で囲われ、中央に祭壇があり、聖池で囲まれている。内部にはヒンズー教のビシュヌ神と王が合体したビシュヌ・ラージャ神像が奉られていた。周囲の壁面にはデバターが浮き彫りされている。
御朱印船貿易が盛んであった17世紀には、祇園精舎と考えた日本人がこの地を訪問している。現在もこれら日本人の落書きが柱などに残されている。
アンコールワットの訪問は日の出前に西参道から入場し、背後から昇る太陽を眺める。さらに午後に訪ねるのが一般的である。
入場料:1日券:米国$20、3日券:$40、7日券:$60(1日券以外は顔写真付き、2002年11月現在)早朝、日の出前より入口ゲートにて発売、17時以降は入場券のチェック業務は終了する。夕刻より翌日利用の一日券購入可能、日没観賞にも利用できる。一部の遺跡では入場券のチェックは行われていない。
因みにカンボジア人は無料。交通手段
個人旅行者はシェムリアップから各遺跡へバイクタクシーなどを利用する。一般的には一日チャータすることになる。バイク牽引式の2人乗り車両などもある。
アンコールワット、アンコールトム間は歩いて行くことも可能。途中にはプノンバケン、南大門などがある。私は入口に架かる橋と門をみた後歩いてバイヨンへ向かった。道路の両側は密林である。その内部にも遺跡が残されているのかもしれないなどと考えながら歩いていた。すると一台のバイクが私の前で停車した。門の前でフイルムを買った女性であった。乗せてくれるとのこと、有り難くバイヨンまで後部座席に乗せて貰うことにした。
日の出 西参道を坊さんが行く 第一回廊南面 第一回廊と中央祠堂 アンコールトム (ANKOR TOM)
アンコールトム(大いなる都城)は古代クメール王国、第三次の都、周囲12kmの環濠都市で、高さ8mの城壁に囲まれ、5つの門を持つ。9世紀から15世紀に渡り栄えるが隣国シャムの侵略(アユタヤ王朝)を受け1432年に放棄される。その古代都市の中央にある大乗仏教寺院がバイヨンである。バイヨンは古代インドの宇宙観、神が降臨するメール山を模して作られたとされる。中央祠堂の高さは45m余りある。この寺院の特徴は50余りある塔に付けられた観世音菩薩四面像である。この四面像が今も四方を見据えている。中央祠堂は第一、第二回廊に囲まれている。回廊に細かく彫刻された物語から、往時の生活や戦の様子を知ることができる。
城壁内には王宮、バプオン、ピミアナカス、王宮正面に位置するテラスなどが点在している。バイヨン寺院には写真を撮る関係で、一般的には午前中に訪ねる人が多い。早朝と午後はアンコールワットを訪ねる。しかし団体客と反対の行動を取ればそれだけ空いていて、ゆっくりと観賞できることになる。
入場料:アンコールワットと共通
交通手段
アンコールワットと同様
東門 観世音菩薩四面像 東門から見た中央祠堂、高さ45m デバター コンポンチャム(ワット・ノコール、WAT NOKOR)
コンポンチャムはプノンペンの東北部120kmに位置し、メコン川に面するコンポンチャム州の州都である。カンボジア3番目の都市、町の中心部にはマーケットがあり、フランス植民地時代の建築物が残る。
ワット・ノコールは11世紀頃に建築された寺院遺跡で、東西南北にある楼門と周壁に囲まれ、中央祠堂、教蔵などが遺る。しかしこの遺跡は後に仏教寺院が建築されているため、建設当時の姿を見ることは出来ない。寺院内部は仏教画が描かれている。
私が訪問したときには結婚したカップルが同行者と共に記念写真やビデオを撮っていた。コンポンチャム近郊にはプノン・プロス、プノン・スレイなどの仏教寺院がある。入場料:無料
交通手段
"Kompong Cham"はカンボジアの首都"PHNOM PENH"東北部に位置し、乗合バスにて約3時間ほどの距離にある。ワット・ノコールは町の中心から西方1km程の距離にある。徒歩又はバイクタクシーを利用する。
"PHNOM PENH−Kompong Cham"間は高速ボートの利用も可能である。
寺院入口 結婚した二人 中央祠堂 本堂 バッタンバン(ワット・バナン、WAT BANAN)
バッタンバンはカンボジア西部に位置する2番目の都市、町中には宝石加工などの店が目立つ。この町は最後までポルポト派の管理下にあり、近郊で産出されるルビーなどの宝石はポルポト派の活動資金源であった。この地を訪れる観光客はあまり多くはなく、その割にホテルなどの宿泊施設は充実している。プノンペンなどと比べ安く宿泊できる。
近郊には10世紀頃に建築された、ワット・バナン、ワット・エク・ブノン、プラサット・バサット等のクメール遺跡がある。ワット・バナンは小高い丘の上に立つ寺院遺跡、小規模ながら五つの祠堂がある。これはアンコールワットの中央祠堂と形式的には同じであるが、比べようもない。遺跡保存状態は悪く、漆喰が剥がれ砂岩の石組みが露出している。ここからは周囲の眺めも良く、ポルポト軍の陣地として使われた理由も理解できる。この遺跡には対空機関砲が残されている。遺跡内を注意して歩くと現在でも薬莢等が落ちている。
私が訪問したときには階段の補修工事が行われていた。小規模ながら修理は行われているようだ。入場料:無料
交通手段
ワット・バナンは"Battambang"南方25km余りの位置にある。遺跡への定期交通手段はないため、バイクタクシーなどを利用する。途中の道路は穴だらけでかなり悪く、舗装されていないため埃が酷い、サングラス、マスクは必需品である。
Wat Banan 対空機関砲 中央祠堂 遺跡からの眺め クメール遺跡を訪ねる2へつづく
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