韓国の歴史的背景
長期のヨーロッパ旅行から日本に戻り、二年程経過した1976年8月、短期の海外旅行計画を立てた。新しい仕事にも慣れ、生活に余裕も出来て「旅行の虫」が疼き出したのだ。そこで旅行費用も安く、短期間で観光できる東アジア、日本と歴史的に関係が深い隣国、大韓民国を観に行くことにした。この頃の日本人の海外旅行先はハワイ、香港、韓国が一般的であった。ハワイは家族ずれか若い女性で海水浴に、香港はブランド品の買い物に、韓国はもっぱら男達の癒しの場としての旅行先であった。韓国へは日本各地から飛行機でソウルへ飛び、市内観光後キーセン(妓生)ハウスでノーハンド式宴会を楽しむものとされた。
当時の韓国では済州島、忠清北道を除き午前0時から4時までの間、夜間外出禁止令が施行されていた。これは外国人には適用されないことになっていた。また韓国では日本文化、社会主義思想に対する検閲が厳しく、日本の書籍は持ち込み制限されていた。さらに、日本からの手紙も検閲されるなど準戦時体制下にあった。この様な社会状況を直接体験する事を旅の主目的と決めた。
(当時の外貨はUS$1=¥292、¥100=163ウオン)1905年11月 第二次日韓協約締結
1906年 2月 韓国統監府設置
1906年12月 伊藤博文初代統監に就任
1909年10月 伊藤博文ハルピンにて安 重根により暗殺
1910年〜45年 日韓併合
1950年〜53年 朝鮮戦争
1960年 4月 大統領三選後に選挙の不正を問われ李大統領失脚、戒厳令施行、ハワイに亡命
1961年 5月 朴正煕少将らによる軍事クーデター勃発
1963年10月 大統領選で朴正煕の選出
1965年 6月 日韓条約締結
1972年10月 反体制派を抑えるために戒厳令を施行
1973年 8月 金大中事件、東京のホテルグランドパレスで拉致後ソウルに軟禁
1974年 8月 朴大統領の講演中に在日韓国人文世光が狙撃し夫人が死亡
1979年10月 金載圭KCIA部長による朴大統領の暗殺
1979年12月 全斗煥少将らによる軍事クーデター勃発
1980年 3月 光州事件勃発
1980年 9月 全斗煥大統領就任
1981年 1月 戒厳令解除
1988年 1月 夜間外出禁止令解除
東京から慶州へ
8月28日(土)仕事を終え東京駅へ行く。山口・秋芳洞周遊券を購入し、夜行バスにて京都へ向かう。京都市内の博物館、寺院などを観光後、山陰線経由で下関へ向かう計画を立てる。しかし、30日の夕刻までには到着できないことが解り、午後の新幹線にて広島へ向かう。しかし広島では知人に会うことが出来ず、駅前のホテルに宿泊し、昔なじみの店で飲む。
さらに翌朝の快速列車にて広島より下関へ向かう。近くの席にいた若いフランス人男性二人ずれと話す。彼等もこれから韓国に観光目的で向かうという。この頃の東京−ソウル間の航空運賃は非常に高額で、片道33,350円であった。当時航空券は一般的に割引き販売されていなかった。陸路で移動した場合、国鉄周遊券(¥7,800)、関釜フェリー(¥10,450)、新幹線特急券(¥6,100)を含め、往復合計25,000円余りと安いルートを選んだ。新幹線に乗らなければもっと安くつくのだが下関から当日の帰京は難しかった。
当時関釜フェリーは週三便(月、水、金)就航していた。30日(月)17時、船は下関を出航した。釜山到着は翌朝6時過ぎとなる。船は揺れることもなく快適であった。船室では電車で会ったフランス人と、フランス人の女性も加わり日本で感じたことなどが話題となる。日本人サラリーマンのコセコセとした余裕のない、休暇も満足に取れない働き過ぎに批判が集中した。
下関−釜山間の距離は228km、船の航行時間は7時間余りである。しかし通関手続きの関係上朝になるまで沖合に停泊する。8月下旬はお盆の時期を過ぎ、韓国人の担ぎ屋とおぼしき人々を除き、観光客も少なく静かな船内であった。通関後タクシーにて高速バスターミナルへ向かう。新羅文化の中心地、慶州には1時間半程にて到着する。観光案内所にて地図付のパンフレットをもらい、市内の古跡名所と佛国寺を巡る定期観光バスに乗る。乗客は韓国人の家族ずれが10人ほどで外国人は私一人であった。
バスの出発時刻になるまで、日本語を話す観光案内所の若い男性職員と旅行の日程を話す。彼は小さな原稿用紙に行き順、距離、所要時間、料金を記入してくれた。さらに私の予定にはなかった海印寺などの訪問を計画してくれる。
観光バスで訪問した佛国寺前で、60歳過ぎの韓国人男性に会う。釜山にある学校法人東莢学園の理事で、韓淙錫(ハン チョンソク)先生、観光バスにここより乗り込みさらに話をする。日本大学の予科を卒業したことや、大学の哲学科教授だった等の話をしながら一緒に観光地を回る。
夕刻バスターミナルに戻ると、出発時にいた中年過ぎのポン引きが我慢強く私を待っていた。先生と二人でコーヒーを飲みに喫茶店へ向かう。何故かポン引きも付いてくる。喫茶店は薄暗く若い女性が大勢居て、その中のママさんらしき女性が私達をニッコリ微笑んで迎えてくれた。その後三人で近くの食堂に移りビール、マッカリ、焼き肉を食べる。外国人の私、元哲学教授、ポン引きと不可解なグループであった。
その夜は食堂近くの水神旅館に泊まる。旅館近くの街角には「歓迎 在日同胞祖国訪問」の横断幕が掲げてあった。
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海印寺で職務質問
9月1日(水)夕刻、慶州より大邱を経て海印寺に入る。大邱より田園風景の中を走ること1時間30分、山間の道に家路を急ぐ学童、草を背負い牛を追う農夫、道路で遊ぶ子供達、田圃の中に点在する小さな石造りの農家、家々からたなびく夕餉の煙、懐かしき昔の日本の風景がそこには存在した。夕暮れの海印寺の村は川のせせらぎと薄暗闇の中であった。バスを降り旅館街に入る。橋を渡った上り坂の両側に旅館は建ち並んでいる。目の前に二人の少女か立っている、一人は赤いチャイナ服を着ている。歌手のアグネスチャンに似た小柄な可愛い娘であった。私は英語で「ハロー、ホテル捜して居るんだけど」と話しかけたが通じない。私は覚え立ての韓国語で「旅館(ヨガァン)」と話すと今度は通じた。私達三人は直ぐ側の旅館に入り、主人に空き部屋の有無と値段を確認する。二食付3000ウオンに決めた。
私の部屋は全面ビニール張りされた、1階の川に面した8畳ぐらいの大きさだった。先ほどの娘も付いてきて部屋に入る。6カ国会話集を取り出し私の発音では通じないため、ハングルを指さしながら意志疎通を図る。娘の名はミン・オン・ズウと言った。娘はニコニコしながら中国人と韓国人の混血だと話した。夕食は膳に乗せられた韓定食が部屋に運ばれた。20品ほどのおかずが並ぶが漬け物などが多く、辛いものばかりで私の口に合わない。天麩羅、焼き肉などを食べる。食事後コーヒーを飲みに誘われ、先ほどの小太りな娘も加わり近くの喫茶店に出かける。コーヒーと言っても韓国ではお湯の入ったカップ、砂糖とインスタントコーヒーの瓶が運ばれてくる、好みの量だけ粉をカップに入れ掻き回せば出来上がりだ。
店内には手持ちぶたさで物憂げな小太りのおばさん達がいて話しながら時々私達を見ている。外では夜の9時を過ぎても子供達が遊んでいる。観光シーズンの間で此の山中の旅館街も静かであった。私はベランダに出て星を見ながら煙草をくゆらせた。娘が「OBビールドクドク、GO GO、ブルース」と言った。娘は小さな名刺を持っていた。それにはOBなにがし、No.100と書かれており、それ以外の文字は私には判読不可であった。お店にいらっしゃいとの誘いらしかった。しばらくそこで時間をつぶし娘の誘いに答えず私は一人で旅館に戻ることにした。翌朝は川のせせらぎで早く目覚めたが食事はなかなか来ない、遅い朝食を終え宿の支払いを済ませ、海印寺に向かう。川沿いの道を歩いていくと、左側に位置する小さな家の開け放された窓から突然鋭い声が掛かる。よく見るとガッチリとした体格の警官であった。私は呼ばれるままに交番に入る。
警官は私が日本人と解ると日本語で職務質問を始めた。「名前は」「住所は」「職業は」「何処から来た」「何処へ行く」「何しに来た」と矢継ぎ早の質問に答え、パスポートを見せてお終いになった。私の髪は耳が隠れるほど長く、紺のジーンズをはいていた。長髪は韓国では許されていなく、不良分子と見られたのだ。また日本や北朝鮮からのスパイ活動に対し取り締まりが厳しかった。突然の職務質問を受けて不愉快だった私は、先ほど支払った旅館の領収書をこの警官に見せ「韓国の旅館では奉仕料を1000ウオンも別に取るのか」と聞いた。私は昨日の約束と違い1200ウオンも高く取られたのが不満であった。警官は直ぐ電話を旅館に入れた。旅館から男が飛んできて警官は強い口調で話し出し男は神妙になった。男はポケットから1000ウオン札を取り出し渋々私に渡した。その後も警官は男を強い口調で叱りつけた。警察権力を目の当たりにして、私の心はむず痒く複雑に揺れた。
海印寺を一通り拝観の後、山門前のベンチで先程まで入場券を売っていた若い僧侶と英語で話す。韓国人女性の性体験が早いことや、自分の女友達も良い男に会ったら其方に行ってしまう等と、僧侶との会話としては生臭い話題であった。何処の国の若い男も若い女には悩まされるようだ。
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扶餘の旅館で職務質問
海印寺より大邱、大田を経て扶餘へバスにて向かう。大邱の高速バスターミナルで大田行きのバスに乗り換える時に、海印寺で見かけた身奇麗な中年の婦人に再度出会う。此方が驚いたように相手もビックリして韓国語で言葉をかけてきた。私が返事に窮すると婦人は状況を理解し日本語に切り替えてくれた。婦人の誘いで私はバスの座席に並んで掛けた。婦人の名前は石蘭(ソンナン)先生、ソウルから小旅行に来ているらしかった。大阪に知人が居ることや大学生の娘が居る事を話し、私がこれから扶餘に向かう予定と話すと出来たら同行したいと言った。大田でバスを降り遅い昼食を取るため焼肉レストランに入る。韓国の焼肉用鍋は日本と違い北海道のジンギスカン料理に使われている物と同じだ。鍋の周りに湯を張り、肉の油を受けるようになっている。辛いキムチを避けている私に婦人は湯の中にキムチを入れて「洗って食べても良いのよ」と上品に言った。
食事後、家に電話を掛けた婦人は用が出来たのでソウルに戻ると話した。そして、ソウルに着いたら電話をしてほしいと番号を書いてくれた。娘が電話に出たら日本語が解らないので「石蘭先生タカジュセオン」と言うように韓国語を教えてくれた。
私は一人でバスに乗り百済の都扶餘に向かった。町中に小さな旅館を見つけ宿泊する事にした。夕食を近くの食堂で済ませ部屋に戻る。明日の行動予定を観光案内書にて確認後、そろそろ寝ようとしていた時刻に、誰かの足音が廊下を近ずいて来て止まった。それから私の部屋のドアが強くノックされ「警察です」と日本語で低く言葉が響いた。私は一瞬背筋が寒くなり、日本の何処かの旅館に泊まっているかの錯覚を起こさせた。私が女性と抱擁でもしていれば、部屋に入ってくるなり警官は「そのまま」と言ったかも知れない。捜査令状もなく部屋に踏み込んでくる警官は路上の職務質問とは大きく違い、私は恐ろしさを強く感じ身震いした。
これはまるで戦前の時代劇の一場面を私に思い出させた。警官が不審者の捜索で旅館に踏み込み、部屋部屋を探し回る。部屋にいる男女は突然の侵入者に裸で逃げまどう。警官が旅館を毎晩訪ねこれを煙たがる旅館の女将が警官の帽子に何某かの金を入れると立ち去る場面だ。旅館が不審な宿泊者情報を警察に連絡し、日本語の解る小太りな中年の警官が職務質問に来たのだ。警官は宿帳とパスポートを見比べ、違いがないか慎重に確認した。警官は少しの記載違いを見過ごさず質問してきた。「名前は」「住所は」「職業は」「何処から来た」「何処へ行く」「旅の目的は」と質問し警官は部屋を出ていった。ソウル以外の小都市でも、独裁政権の維持に強大な警察権力が存在することを私に体験させてくれる出来事だった。
海印寺、扶餘での体験から韓国では迂闊な発言は出来ないことを強く認識した。翌日訪問した観光案内所の職員と韓国と日本の歴史的背景や、日本人と韓国人の問題、南と北の問題などを話したが深入りは避けることにした。
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ソウルの街角で軍人と対決
扶餘に在る百済の史跡を一通り観光した後、名前に反し通俗化した俗離山、城壁が今も残る水原と観光する。そして、9月4日(土)午後、地下鉄にてソウルの鍾閣へ入る。最初に宿泊予定していたYMCAに行くが、一人部屋が4000ウオンと高いので宿泊をためらい、他の旅館を探しながら鍾路を歩いていくと、銃を横に抱えた戦闘服姿の兵士に呼び止められた。
軍人か警官が街の四隅で警備しているソウルでは、この兵士の前にも2〜3回声を掛けられていた。私は相手の目を直視し睨みかいしていたので、私が韓国人でないことを相手が理解しそのまま通り過ぎてきた。しかし今度の兵隊は鈍感なのか私の態度を理解できないようだ。兵士は私に向かい「韓国人の不良分子が」と言う態度で何か叫いている。私も「何だ此奴は」と更に睨み返していた。しかたなく徐に私は6カ国会話集を鞄より取り出し、たどたどしい発音で「ナヌン イルボンサラム イムニダ(私は日本人です)」と読み上げた。やっと男は事情を理解したようで、今度はあっちへ行けという態度を示した。私はここで負けてはなる物かと「旅館を探しているが何処か知らないか」と今度は此方から相手に問いかけた。それに答えこの兵士は舎弟に「案内してこい」と指示を出した。私は若い兵士の後について近くの猥雑な路地を入ると小さく粗末な錦豊旅館があった。
旅館に「アンニヨン ハシムニカ(こんにちは)」と声を掛けて入っていくと、中から女の子と中年の婦人が出てきた。英語は通じず子供が階段を駆け上がっていった。上の階から小柄な中年の婦人が出てきて「どうかしましたか」と流暢な日本語で言った。私は「部屋を捜しています」と話すと通訳してくれた。洗面所やトイレも付属しない6畳間位のビニール張りの粗末な部屋を見た後、婦人は「どうですか」と言った。私は提示された金額2000ウオンでは高いと返事した。さらに値段交渉してもらい1500ウオンで泊まることに決める。この旅館は長期滞在者が宿泊しておりこの婦人も同様であった。
コーヒーをご馳走に婦人の部屋に招かれる。部屋に入ると、壁際に在る本棚には日本の婦人雑誌が10数冊も並んでいた。この婦人は日本の商社で働いていると話した。
夕刻になり風呂の話をするとこの旅館には無いという。近くの公衆浴場に行けと話した。場所を教えてもらい風呂屋に行く。風呂屋の入口には番台があり中年の婦人が座っていた。大きな浴槽が浴室の真ん中にあり、周りが洗い場になっている。日本の風呂屋と大きな違いはなかった。夜になり中学生位の旅館の息子に案内され、ソウル一の繁華街明洞(ミョンドン)を見て歩く。夕食は旅館の従業員か滞在者か解らない若い女性と、近くのレストランへ焼肉定食を食べに行く。言葉は通じず、彼女が親切に肉を焼き、生ニンニクと一緒に青菜に包んでくれる。その生ニンニクが辛く、手話で断るのが精一杯のコミュニケーションであった。
ソウルでは外出禁止令のため、夜の11時を過ぎると道路は家路を急ぐ人々で混雑してくる。そして12時になると人と車の流れはピタリと止まる。道路上から車も人もいなくなり橙色の街灯だけがむなしく点灯し、信号が点滅している。この異様な静けさの中を、軍の関係車が大きな音を発しながら走り抜けていった。1976年8月18日板門店において、北朝鮮兵とアメリカ兵の衝突があり、アメリカ兵二名が死亡する板門店事件(ポプラ事件)が勃発した。そのため板門店観光ツアーは休止され、ソウルにはある種の緊張感が存在していたようだ。
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