貧乏旅行の話

27.インドで金縛り

インドで金縛り

インドで修行

インドで金縛り

 インド社会は宗教的慣習が強く市民生活を大きく左右している。毎日の食事も肉食主義か、菜食主義にわかれる。肉食にしてもヒンズー教徒は「神聖な牛」を食べない。イスラム教徒は「不浄な豚」を食べない。ところがインド南部ケララ州ではキリスト教徒が多いためか、ステーキやシチュー料理で牛肉を食べることが出来る。しかしインド国内で牛が食用にされていることを信じないインド人もいる。それだけインドでは特異なことのようだ。

 インドにはアルコールを飲むのを良しとしない文化がある。インド西部にあるグジャラート州のように、飲酒を禁止している州も現実に存在する。禁酒法は施行されていなくても、禁酒日を制定している所もある。また、宗教によっては厳粛に禁止もされてもいる。イスラム教、ジャイナ教、シーク教などは飲酒を禁止している。ヒンズー教も飲酒は好まれているわけではない。キリスト教、仏教などと飲酒に対する考え方が明らかに違うようだ。何処の地でも食事と共に軽く一杯とはいかないのがインドである。

 インドではアルコール度8パーセント余りのストロングビールと、アルコール度5パーセント前後あるピルスナー系ビールの2種類が売られている。日本では余り見かけないが、アルコール度の高いビールが有ることは以前から私は知っていた。仕事関連で英国から送られてきた、10パーセントを超すビールを会社で試飲したこともある。
 レストランや食堂で飲むビールの値段は80ルピー前後しており、他の物価と比べ安くはない。その原因は税率が高いことによる。しかし酒税も州により大きく違う。フランスの植民地であった"Pondicherry"や、ポルトガルの植民地であった"Diu"などは半額に近い。 

 2005年10月、私はインド南部から中西部を旅行していた。仏教遺跡で有名なサンチーを訪ねるため、ボパールに数日滞在する。ボパールはインド中部マディヤ・プラデッシュ州の首都で、今から20年余り前の1984年12月3日の深夜、アメリカの化学会社ユニオンカーバイトの工場から殺人ガスが漏れ出し、3万人余りの住民が死亡する事故が発生したことで知られる。
 

 初日は早朝の普通列車を利用しサンチーを訪ねる。ここは小高い丘の上に、紀元前3世紀頃から建設された仏教遺跡がある。それ以外は、小さな村がある静かなところだ。翌日はボパール市内のモスクや、博物館を見て回る。そして、夜行列車にてアーメダバードへ移動する予定であった。前々日宿泊した鉄道駅近くの、ホテル1階にあるレストランに、遅い昼食を取るために入る。長時間町中をうろついた後で、私はのどが渇いていた。夜行列車の出発時刻まで十分な時間があったので、ビールを飲むことにする。
 メニューには数社のビールが載っている。その中のストロングビールの大瓶を依頼する。冷房の良く効いた部屋で、味の濃いビールで咽を潤した。少しづつ味わいながら、ゆっくりと飲み干す。1時間ほど時間をかけた食事を済ませ、ホテルに戻ることにする。
 
 私の宿泊しているホテルは道路の向かい側にあった。片道2車線ほどある大通りを横切り、ホテルに戻る。ふらつきながら階段を上がり、2階のフロントで鍵を受け取る。シャワーのヒーターを入れてもらい部屋に入る。そして洋服を脱いでいる最中に事は起こった。両足の筋肉が痙攣し、立っていられなくなった。脱ぎかけたズボンを、足に引っかけたまま、ベットに転がる。額からは冷や汗が出ている。体が麻痺し、自由に動かすことが出来ない。体を曲げて脱ぎ掛けたズボンの処理も出来ず、横になる。両足の筋肉が吊り、伸ばすこともできない。足の親指を反らしても吊った筋肉は戻らない。私の体に何が起こったのか、恐怖心が走る。

 1時間余り私はベットの上で唸り、転がり回っていた。ただ単なるアルコールを飲んで酔っぱらったとは違う何かが私の体に起こっていた。そして、ホテルへ戻る時間が5分でも遅れていたら、私はオイルや牛糞で汚れた道路上で、転げ回ることになったであろう。駅へ続くこの大通りは車の往来も激しく、車にひき殺されていたかも知れない。それとも身動きできない東アジア人を認め、盗難に遭う可能性も十分にあった。

 海外旅行中の注意事項として、「見知らぬ人から食べ物や飲み物を貰うな」と有る。睡眠薬や毒物が盛られる可能性があるからだ。列車やバスの中で、寝入っている間に身ぐるみはがされる事件も起きている。
 マンドゥよりインドールを経てボパールへ向かう長距離バスで会ったキリスト教徒の男も、インド社会の危険性を私に教授してくれた。その男が親切でそのような話をしたのか、それに反し自分は安全だと私を欺こうとしたのか解らない。彼がバス車内で回ってきたバナナをくれようとしたが、私は丁重に断った。そして笑いながら自分が話したことを思い出し了解していた。

 一人旅では日常の行動は強い緊張の連続だ。人で溢れる町中は尚更である。頼れるのは自分一人。自分を守るのも己の注意力だ。しかし精神的な痛手や、肉体的な打撃で人は緊張感を失う事がある。この緊張感の喪失で行動が散漫になり、事故や事件を誘発することになる。

 今回の私の体験は、私の体調が悪かったのか、強いアルコールに酔ったのか、ビールに不純物が含まれていたのか、誰かに毒を盛られたのか、未だ原因は不明である。しかし思い出しても恐ろしい経験であった。一人で旅することの危険を強く感じる出来事であった。
 不信心を自認する私が、仏教発祥の地インドで、不動明王(アチャラナータ)による、金縛りの威力を体験することになったのであろうか。インド旅行中に体験した今回の事件は、今までの人生で経験したことのない、不思議な出来事であった。

ストパ 第1塔, Sanchi
村の子供達, Sanchi
 
Taj-ul-Masjid, Bhopal
露店, Bhopal

インドで修行

 初めてその日本人の坊さんに会ったのは、インド南部タミルナドゥ州中部に位置するマドゥライの街角であった。私がレストランで食事中に前の通りを団扇太鼓を持ち、黄色い袈裟を着て、頭を丸めた坊さんが通った。インド南部では仏教徒は少なく、仏教遺跡も存在しない。私はここにも坊さんが居るのかと奇異に受け止めた。食事を済ませ町中を歩いていくと、先の坊さんがこちらに向かって歩いてくる。お互いが日本人と認識し、少々立ち話をした。私達が話している間にも、通行人から坊さんに声がかけられた。その後オート力車にてガンジー博物館に向かう。この博物館の敷地内に小さな仏教寺院がある。

 この寺院の2階にある本堂で読経に参加後、坊さんの講話を聞く。この坊さんが属する宗教の教祖が、ガンジーと親交が深く、特別な計らいで寺院の敷地を提供されていること。現在は住職は常駐せず、新しい寺院を建設中であること。自分は教祖とインド旅行中に出会い、出家するに至ったこと。インド洋大津波の後、インド各地を行脚したこと。新しい寺院にはインド人と日本人の若い尼さんが居る事も解る。そして現在建設途中の寺院の場所を教えてくれる。10月2日がガンジー誕生日で、式典が行われる事を知る。

 私は坊さんと別れ、入場料無料のガンジー博物館を見学する。そしてマドゥライに3泊した後、インド最南端を目指す。"Madurai - Rameswaram - Kanya Kumari - TRIVANDRUM"と東から西へ移動する。
 カンヤクマリのコモリン岬はインド洋、ベンガル湾、アラビア海が交じ合う有名な聖地だ。土産物屋が並び、インド人観光客で混雑していた。ケララ州の首都トリバンドラムを旅行した後、日本寺院を訪ねることにする。その時私の手元にはカタカナで書かれた町の名前と電話番号だけであった。カンヤクマリの観光案内所にて地図を手に入れ、場所を確認する。

 ケララ州首都"TRIVANDRUM"より早朝のバスに乗り、タミルナドゥ州の"Nagercoil"へ向かう。更にバスを乗り換え北に向かい"Tirunelveli"へ行く。ここでバスを乗り換え"Sankarankovil"へ入る。 到着は午後の1時頃であった。ここは観光客も来ない田舎町である。小さな雑然としたバスターミナルを離れ、町中へ行き食堂を探す。ここでは英語も満足に通じない。
 食事後寺院に向かう。オート力車は料金が高い為、バスを利用する。車掌に村の名前と仏教寺院に行きたいと話す。バスは市街地を抜け鉄道駅の脇を通り、郊外に出た。一面は赤色の荒れた土地だ。道の両側に白く塗られた街路樹が並ぶ。

 バスの車掌と運転手が何か話している。そして私はバス停でもないところで下ろされる。廻りは人家もない荒れ地であった。そして、私の目的の寺院はあっちだと指差される。私は言われるまま畑の中の道をとぼとぼと歩きだした。しかしその道は段々細くなり畦になった。そのまま仕方なく歩いていく。畑中で牛飼いの老人を見つけ、寺院の方向を聞く。だいたいの方向が解り、そこから更に進み砂利道に出る。
 道の前方にオートバイが止まっている。その脇に1人の男が立っていた。オートバイの荷台に乗せていた穀物袋を落としたらしい。一人で乗せようとするが、重くて乗せられないのだ。丁度通りがかった私に手伝えと言う。2人がかりでステップに袋を乗せる。そして私は彼に寺の場所を聞く。

 男が指差した方向に煉瓦製の建物が見える。お寺は荒れ地の中にぽつんとあった。背後には低い岩山が見える。やせこけた番犬が激しく鳴いて私を迎えた。
 早速宿泊する部屋を和尚より与えられ、式典の準備を手伝う。寺院は2階部分が建設中であった。1階部分はほぼ完成し、小堂、宿舎、台所として利用されている。本堂は2階に位置している。コンクリートの床に敷物を広げ、正面の仏壇に仏像やガンジー、教祖の写真を配し、日本から持ち込んだ盆提灯、造花、太鼓などを並べる。そして夕刻の勤めを行う。
 この寺の土地はこの町の有力者が寄進し、大きな仏舎利塔建設の準備がされていた。3人の僧侶以外には寺守の雑事をする家族が常駐していた。
 

 夕刻にはマドゥライから2組の来客があった。3人の平和運動家らしき男性のグループ。ボランティア団体で、孤児などの面倒を見ている5人のグループ。その中にスイス人の若い女性がいた。彼女はスイスのボランティア団体から派遣されて来ていた。しかし、男友達がスイスから遊びに来るらしく、早く解放されインド国内の観光旅行を希望していた。
 彼女は仏教施設に滞在し瞑想体験を希望していた。禅ブームの影響か坊さんと英語で、交流を持てる寺院もタイなどにはある。釈迦が菩提樹の下で悟りを得たブッタガヤには、仏教が栄えた国々の寺院がある。各国の僧侶が駐在し、修行と共に宿泊が可能な施設も存在する。
 
 寺の朝は早い。早朝4時半より一日の勤めが始まる。私は大きな太鼓の音で起こされる。寝ているわけも行かず、5時前には読経に参列、団扇太鼓をたたき経を唱和する。コンクリートが打ち放しで、窓枠にガラスもはめられていない、未完成の本堂に太鼓の音が響く。6時前には昨夜宿泊した人々も参列する。
 まだ薄暗い6時頃に本堂より外に出る。読経しながら寺院内にある仏舎利と、石碑の周りを回り、日の出を拝む。この寺院での作法は経も含め、全て日本式であった。

 早朝の読経が終わり朝食を取る。もちろん菜食だ。3人の男性グループが仏教旗などの飾り付けを行う。入口の床にはモザイクが描かれ、式典の進行、講話などは彼等が行う。9時頃には村人が集まり、本堂は一杯になった。読経後タミール語で講話があった。地方紙の新聞記者も取材に来ていた。
 式典の最後に菓子、バナナや紅茶が参列者に振る舞われた。子供達はそれを目当てに参列しに来ている。

 一日の行事が終わり、夕刻前に皆が家路についた。寺に残ったのは私一人であった。静かになった夕食後坊さんと話しをする。
 インド社会が経済的に豊かになると共に、ガンジー的な質素な生活を重んじる価値観が受け入れられなくなってきていること。自分が教祖に会いに行ったときに起きた自然現象などの出来事などを話していた。その体験が如何に不思議で、特別なことであるかと強調していた。自分は教祖に会い価値観が変わり、出家する決意をしたこと。親の反対にあったことなどを話した。そして、日本の坊さんは出家ではなく、内家だと墓守を職業化した日本仏教に批判的であった。
 

 インド北部、釈迦族の王子、釈迦の悟りから紀元前5〜6世紀頃に始まった仏教は、インド国内で大きく発展する。しかし、7世紀頃から衰退し、13世紀初頭にはイスラムの進行と共に滅亡に至る。しかし、セイロン、ビルマ、タイに布教された小乗仏教とチベット、中国、ベトナム、朝鮮、日本に伝わった大乗仏教は生き残る。
 そして、現代では日本の仏教系新興宗教が、インド各地で布教活動をしている。仏典はサンスクリット語で書かれていたはずだが、この地でも経は日本と同じ漢文である。日本人でも呪文としか思えぬ漢文が、インド人にどの様に受け入れられているのであろうか。階級制度の底辺にいる人々の不満を受け入れることにより、信者を増やしているらしい。

 インド国内における宗教構成は2001年の国勢調査によると、ヒンズー教80.5パーセント、イスラム教13.4パーセント、キリスト教2.3パーセント、シーク教1.9パーセント、仏教、ジャイナ教、ゾロアスター教など1.8パーセントとなっている。
 ヒンズー教やイスラム教は他の宗教信者に対し排他的だ。ヒンズー教の寺院では信者以外は入場が禁止されている核心部が存在し、イスラム教モスクでも祈りの時間は排除される。日本の宗教施設も同様で、許可を得ない限り本殿や本堂に入れる施設は少ない。入場料(拝観料)を徴収する宗教施設など日本以外には存在しない。

 富と名誉、金と女、健康が価値基準の現代日本において、国家神道と仏教が社会生活の慣習、基盤であり、諸々の新興宗教が精神的、物質的な現世利益を担っている。科学が進歩し、技術が発展しても各人が持つ精神的な不安、恐怖、希望、未来、未知、自然現象などや 肉体的な病気、死に対し、各人の悟りを抜きにして解決はない。そこで宗教の真価が問われるわけだが、神道や仏教がそれらの悩みに答えられていない。
 雨後の竹の子のように、新たな新興宗教が生まれ、「予言や奇跡」を信じ、「金銭を寄進することにより救われる」と信じる人々がなんと多いことか、老人だけでなく、若い人々もそれらに騙される社会現象が後を絶たない。

 人が生きる目的が何にせよ、煩悩からの解脱なくして、精神の平安はあり得ない。人の抱く欲望には際限がなく、そして満たされることもないのだ。インドでは解脱を目指し、出家して、衣、椀と杖しか持たず、聖地を流浪する行者などの生き方もある。
 ビルマ南部泰緬鉄道の起点、タンビュザヤよりモウラミャインへ戻る途中に会った、体格の良い坊さんから物をもらったことがある。それも日本製の強壮ドリンクであった。私は有り難く貰ったのだが、何故お坊さんがそのような物を持っていたのか、私には不思議であった。強壮ドリンクはどう考えても坊さんには似合わない代物だ。
 小乗仏教では女人に触れることを堅く禁じている。公共の乗り物でも坊さんは女性と触れないように注意している。煩悩を抑えることが出来て、解脱できるわけだ。そして求道者としての模範が示せることになる。しかし、ビルマで私が会った坊さんは日本製の高級車に乗り、栄養が行き届いているので、体格も良く、私には特権階級にさえ見えた。

寺院前で記念写真
ガンジー誕生日の式典
 
早朝の勤め
仏舎利塔

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