ドミトリーに泊まる
安宿の代名詞はやはり「ドミトリー(Dormitory)」であろう。日本語では「相部屋」と言う。日本の山小屋、スキーヤーズベットや長距離フェリーの二等もこれに該当する。地震などの自然災害時に泊まる避難所も同じような物だ。日雇い労働者や長期労働者が雑魚寝をする飯場やたこ部屋もこれに近い。
日本やヨーロッパで若者が泊まる施設としてユースホステルが一般的だ。これらのユースホステルはドミトリー形式だ。日本では和室の部屋に布団が並び、西洋では大きな部屋に2段ベットなどが並んでいる。そして洗面所やトイレは当然共同である。何処の国でも貧乏旅行者はドミトリーを利用する。何故利用するかは明らかで、ただ単に安いからだ。私もヨーロッパ旅行中は良く利用した。ヨーロッパではユースホステル以外の選択は私にはなかった。ユースホステルと比べ、ホテルやペンションなどの部屋は数倍も高い。夜間に眠るだけなら、宿泊に高い料金を払うのは経済的ではないという考えもある。そして、節約した分を食費にかけるのが理想的だ。
これらのドミトリーは国や地域により、規模や設備が大きく違う。食事が提供される施設もあり、部屋の大きさや、ベットの数も様々だ。部屋が男女別に分かれた施設や、男女同居も存在する。そしてドミトリーは旅行者の情報交換、交流の場としての機能を持っている。しかしヨーロッパを離れるとドミトリーに泊まる機会も少なくなった。ユースホステルなるドイツ起源の若者向け施設が少ないのも原因であろう。また貧しい国では観光旅行する若者も当然少ない。それと治安面から個室の方が安全だ。ドミトリーでは貴重品の管理は特に注意が必要となる。ヨーロッパのユースホステルで洗面所から部屋に戻ったとき、私のベットの枕元を探っている同宿者に会ったことがある。何処でも悪い奴はいるのだ。寝首をかかれることも当然あり得る。
パキスタン、ペシャワールのドミトリーですさまじい体験をする。同室者が麻薬の常習者であった。中東やアジア諸国では大麻などは日常的に目にする機会が多い。しかしヘロインとなると話は別だ。フランス人の若い男は皆がいる部屋の鍵をかけ、ゴムバンドと注射器を出し、腕に唾を付けてこすり、慣れた手つきで注射を始めた。これには私も驚いた。そして安眠できずに朝を迎える。翌朝早々移るホテルを探すことにした。
1990年頃の中国では、昔の高級ホテルがドミトリーとして利用されていた。上海の日本租界に位置する、浦江飯店の部屋はバルコニーが付き、ベットが20台も置ける大きさである。さらに洗面所はビジネスホテルの部屋ぐらいあった。
小規模なホテルではツインベットの部屋が相部屋として利用されていた。基本的には同性で、同国籍者で共同利用する。朝、目を覚ましたら隣のベットに見知らぬ人が寝ていることもあり得た。しかし、同室者が誰もいなければ料金は半額で経済的でもあった。大学の寄宿舎に中国で泊まったことがある。上海から杭州への列車の中で、オーストラリア人とフランス人のカップルと出会う。彼らは留学生で休暇を利用し、黄山へ行く途中であった。列車は夕刻杭州に到着、宿泊先を大学の寄宿舎と決める。彼らは学生証を持っており安く泊まれるからだ。私も彼らに同行する。
駅よりバスに乗り、暗い道を走り大学前で下車する。入口の守衛に訪問趣旨を話し校内に入る。校内には寄宿舎が何棟も並んでいる。室内を見ると洗濯物がたなびき、鉄パイプの2段ベットが並ぶ。それらに女子大生が腰掛けて本を読んでいる。ここに泊まるのかと私は少々落胆する。しかし、外国人留学生の寄宿舎は特別で、入口には鉄のシャッターがあった。2階に上がると受付がある。廊下の両側に部屋が並んでいる。彼らは係員に学生証を見せ、人民元で宿泊料金を支払う。私は学生証がないので、兌換券(FEC)で支払った。部屋は普段留学生が利用している物で、休暇中の空いている部屋に泊めてくれる。大きな部屋に3台のベットが並んでいた。
翌早朝彼らは私の知らないうちに、黄山へ出発していた。一人残こされた私は大学が町のどの辺に位置しているのか、皆目分からなかった。係員に英語は通じず、仕方なく洗面所で会った日本人留学生に町に出る方法を聞く。私はここに滞在するのは観光に不便と判断する。荷物をまとめ、バスにて町の中心に移り、華僑飯店に泊まることにした。何年か前に大阪で中国人団体旅行者が、他の旅行者と宿泊条件が違い差別されたと、日本の航空会社に抗議した事件があった。同様なことを私は中国で体験している。
中国大連行きの中国国際航空機が、大雨で滑走路を利用できず北京まで直行した。日本人のツアー旅行者と共に、航空会社が手配したバスにて、飛行場近くの招待所に泊まることになる。そのときの席はビジネスクラスから、ファーストクラスにアップグレードされていた。しかしそんなことはお構いなく、中国人と相部屋にされた。これには驚くと共に、少々怒りを覚えた。商用で相部屋に泊まるのは精神的に抵抗があった。私は了解できないので招待所の受付係員に詰め寄り、かなり粘ったうえ、大きな一人部屋を確保する。しかし100元のリベートはしっかり取られた。最近はドミトリーに泊まることも少なくなった。それはアジアなど、旅行先の宿泊料金が安いのも主な原因だ。そして年齢が増すと共に、プライバシー確保を優先し、緊張が強いられる相部屋を、敬遠しているのも大きな理由だ。
2005年のインド旅行中に、一度だけドミトリーに泊まったことがある。インドでも経済発展が著しい都市ムンバイ(ボンベイ)でのことだ。この町はインドでもホテル料金が高いことで有名だ。インド門の側には有名なインド資本によるホテル、タジ・マハールがある。ここには高くて泊まれないので、安宿を探した。救世軍が運営するホテルは満室で、YWCAに泊まることにした。YWCAはキリスト教徒向けの女性用宿泊施設である。しかしキリスト教徒ではない男性も泊めてくれる。しかし会員ではないので割増金が付加される。このときは大変幸運であった。バルコニー付きのシングルが空いていた。料金は二食付きで900ルピーであった。食事はビュフェ形式で、西洋料理が食べ放題である。
しかし翌日からシングルルームは満室という。そして3人部屋のドミトリーが空いていた。同室者を確認すると、インド人と南アメリカ人であった。料金は760ルピーである。たいして安くないのだ。部屋には3台のベットと鍵のかかるロッカーがあり、シャワー、トイレ付きである。そして食事も含まれている。他のホテルを探すが余り良くない。そこで止むなく泊まることにした。二人の男は商用でムンバイに来ていた。インド人はニューデリーから、何かのイベントがあるらしかった。南米の男は電話関連の技師で、イギリス人やフランス人の技師と一緒に働いていた。部屋には昼間は誰もいないので自由に利用できた。夜は彼らと一緒に飲みにも出かけた。荷物は部屋に設置されたロッカーを利用した。しかし、彼らはだらしないのか、信用しているのか貴重品以外は置きっぱなしであった。
ところが世の中は悪いことばかりではない。若い綺麗な女性と二人で相部屋になることもたまにはある。それもイスラム教国、マレーシアでのことだ。男女関係には厳格な社会で、「男女七歳にして席を同じゅうせず」が未だ規則として残る国柄だ。
マレーシアでも国立公園内にある宿泊施設などは個室とドミトリーがある。そのイギリス人の若い女性とはボルネオ島サラワク州クチン南部、バコ国立公園の入口の村にあるボート乗り場で会った。二人でボートに乗り国立公園の施設に向かう。ここに泊まるには事前にクチンにある公園本部にて、宿泊予約が必要である。しかし宿泊する観光客は多くはなかった。公園本部に宿泊手続き後、二人で公園内を散策する。公園本部の周りには髭豚や、猿が生息している。ロッジは本部周辺に点在していた。二人の部屋は4人部屋であった。彼女は少々緊張していたが、私にためらう理由はなかった。彼女を先に部屋に入れベットを選ばせた。4台並んだ端のベットに荷物を起き、真ん中のベッド2台でそれぞれ寝ることになった。天気が悪く室内はじめじめしていた。扇風機を回し横になる。彼女は本を読んでいた。そして私の読んでいる本の内容を聞いてきた。少々身の上話をした後眠りにつく。遠くに波の音が響き、静かな夜であった。
翌日の夕刻、クチンのバスターミナルにて、彼女とは握手をして分かれる。残念ながら二人の間にロマンスが生まれる気配はなかった。
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旅は水杯
海外旅行に出かける前にいつも考えることがある。それは「無事に日本に帰り着けるか」だ。未知なる世界を旅行するにはそれなりの覚悟が必要と私は思っている。地震、津波などの自然災害、航空機、船、鉄道やバスなどの交通事故、マラリア、狂犬病や風土病、そして犯罪に巻き込まれるなど、災難は何処にでも日常的に存在する。
事故もなく日本に帰り着ければそれに越したことはない。それは幸せなことだ。しかし長期旅行にはそれなりの危険が伴う。訪問する国の予備知識を持ち、細心の注意を払っていても、何が起こるか分からないのがこの世の中だ。無事に帰国できて当たり前ではけしてない。日本における日常生活においてもそれは言えることだ。かつて、日本は治安の良い国として世界的に有名だった。多くの日本人が中流意識を持ち、会社員として働いていれば、平均的な生活程度が維持できた。国民皆に職があり、貧富の格差が少なければ、食べるために罪を犯す人はいない。しかしバブル崩壊後の、長期間続いた不景気で、リストラという名の首切りが横行する。失業者が増加し、アルバイトなどの不安定な職業者が増加した。そして、貧富の格差が拡大し、犯罪も増加している。
しかし、日本は他国と比べまだ安全といえる。貧富の格差が大きい外国は日本と事情が違う。世界一の軍事費を使う豊かな国、アメリカ合衆国でも、貧富の格差は大きく、犯罪発生率も高い。そのような国に、日本と同じ感覚で個人旅行するのはかなり危険だ。その国の社会状況や習慣を知らずに旅するのは命取りに思える。そして、命を懸けてまで旅行をする必要はないのである。
インターネットを見ていて、海外旅行中に行方不明になる人がかなりいることを知った。最近では2006年9月、インド中部アグラで行方不明になった慶大生がいる。友人と家族がホームページを立ち上げ、情報を求めている。インド旅行は初めてで、出発地のニューデリーで、悪徳旅行業者に出会う。旅行業者の手配で、タジ・マハールで有名なアグラを訪ねる。しかし、その後の足取りはアグラで消えている。最初の旅行予定は3週間余り、資金も長期滞在できるほど持ってはいない。
昔NHKラジオの番組で「尋ね人」の時間があった。仲曽根美樹が歌う「わくらば(病葉)を今日も浮かべて、町の谷 川は流れる」の曲と共に「何処の誰さんが、何処何処の誰さんを捜しています」と言う物だった。この曲のもの悲しいメロディーと共に未だ忘れがたい番組である。この番組の趣旨は敗戦後の混乱期に行方不明になった知人や親族を捜す物であった。
時は流れ、現在では人捜しもインターネットによるらしい。「海外行方不明者家族の会」も設立されている。しかし、人捜しの難しさは昔も今も同じだ。個人情報が管理された日本では警察や役所などの協力がなければ、かなり難しい。外国では尚更だ。事件や事故に遭ったり、本人が失踪することもあり得る。
海外で行方不明になった場合、報道機関や警察、役所などの公的機関の協力なしに捜査は不可能に近い。2005年のインド旅行中に私の親族に不幸があった。そのことを知ったのはニューデリーのインターネットカフェである。ウェブメールを確認し、初めて深刻な状況を知る。そこで、すぐ帰国することを考えた。帰国ルートを思案する。私の航空券はコルカタ(カルカッタ)発であった。ホテル内にあるタイ航空機の支店を訪ねルート変更を打診する。しかし色好い返事は帰ってこない。航空券購入時の料金は同じでも、ルート変更はできない規定だった。仕方なくニューデリー‐バンコク間の料金と予約状況を確認する。あまりにも高いので結論を留保しそこを去る。
国内線でニューデリー‐コルカッタ間を飛ぶことも考えた。しかしこれも250米国ドル余りと料金が高い。鉄道駅に行き夜行寝台車の空席状況を確認する。冷房付き3段寝台に、1席だけ空きがあることが分かりこれに決める。料金は食事付きで1500ルピーであった。更に電話にてコルカタ‐バンコク‐成田の予約を入れる。
もうジタバタしてもしょうがないと覚悟を決める。海外にいては直ぐに動きがとれない。飛行機も毎日は飛んでいない。海外旅行は「水杯であること」を今更ながら自覚させられる。かつて旅人は出かける前に、親族や知人と水杯で別れを告げたという。それほど人の世は無情であった。誰も先のことは分からない、そういう意識を皆が共有していた。現在では日常の中に人の死が見えにくい。しかし人の世の無情は昔も今も変わりはないのである。
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