人種差別について
貧乏旅行の基本は訪問した町を自分の足で歩く事である。そこに住んでいる人々が日常的に使うバスや路面電車等の交通機関を利用する事である。タクシーは不案内な場所では大変便利ではあるが、金持ちや特権階級が使う代物と考える。旅では道に迷うことも楽しみ方の一つであり、市街地を地図を片手に歩くことにより町の概要を把握し迷うこともなくなる。歩くことにより寄り道が出来、立ち止まることにより小さい物も見えてくる。そこに珍しい物や新たな発見が有れば尚良いのだ。そして町中を歩いていると子供達から声を掛けられることがある。それは「チナ」「チネス」というアジア人一般に対する軽蔑語であったり、「ブルスリー」「イノキ」というアジア系格闘技有名人の名前であったりする。場合によってはその子供達が物乞いをしてきたり、時に石が飛んできたりするので注意は怠らない方がいい。子供が発する言葉は普段大人がふと使う言葉の現れである。人間は教養や、理性で差別語を発しないように普段注意している。誰にでも差別心は心の底に純然と存在する。しかし、あえて表に出さないのがその人の持つ教養であり、理性であろう。しかし金銭的に貧しい人ほど生活に余裕がない為か、また普段差別されていることの反動か、自分より弱い者や余所者を見つけると差別心を露わにする。自分より劣る人間や貧しい人間を見つけると、自分が上に立て安心できるからだ。これも彼等なりの一つの自己表現であろう。
西欧社会においてはヨーロッパ人以外の黒人、ユダヤ人、ジプシー、アラブ人、アジア人に対する偏見と差別が日常的に存在する。ギリシャ、ローマ時代から暗黒の時代を経て、ルネッサンス以降文化的にも経済的にも優位に立っている自信が他民族への偏見や差別に繋がっている。ヨーロッパの中世はアラブの持つ文化、経済、軍事力に戦いていた時代である。アラブ勢力の衰退と共に繁栄を取り戻し現在に至っているわけだが、これらの繁栄は16世紀以降スペイン、ポルトガル、オランダ、英国、フランス等がヨーロパ大陸からアジア、アメリカ、アフリカ大陸に進出し植民地政策を行い略奪したり、奴隷として原住民をただ同然で働かせて得てきた富である。
近年においても南アフリカ共和国におけるアパルトヘイト(人種隔離政策)はオランダ系移民を軸とする象徴的な人種差別制度であった。この制度は世界中の人権団体から批判され1991年6月に廃止されることになる。日本においても近代西欧手法に習い明治時代以降台湾、韓国、満州、上海を植民地化するが、アジア人特に韓国人や中国人に対する差別意識がこの辺から生まれてくるのであろう。面白いことに日本人は白人に対する劣等感が強くへりくだる形で相反する形の差別意識となっている。日本の政治手法を見ているとこの嫌らしさが顕著に表れている。アメリカ合衆国に対しては何も発言できず総て服従であり、韓国や中国には高圧的になっていることだ。
現在日本が襲われている不景気の元になったバブルは「日本とドイツにてアメリカ経済を助ける両輪(機関車論)」「ジャパン アズ ナンバーワン」と景気を煽り、踊らされて金融の引き締め時期を見失った為である。その後自己決断も出来ずに経済を運営する愚かな国とアメリカから冷笑されIMF管理下に置かれる可能性さえある。ここ10年余りタコが自分の足を食う如く借金を増やすことになった。その間アメリカは過去最大の繁栄を謳歌することになる。
アフガニスタン問題に対するアメリカ合衆国への小泉純一郎の主体性無き追随や、靖国神社参拝問題に対するアジア諸国への対応は彼の日本人的性行を顕著に表している。インドなどの明らかな階級社会において旅行中何処に自分の身を置くかが問題になることがある。差別や偏見に一人で対しつつ自分なりの世界観を得るのが貧乏旅行なのだ。
クリスマスミサに行く
1973年の12月私はドイツのデュセルドルフに滞在していた。学生時代の知人が駐在員として日本の会社から派遣されていたからだ。私は中途半端なドイツ語をどうにかしたいと悩んでいた。短期間で正しく言葉を学ぶには学校に通うのが一番良い。しかし手持ち資金は限られておりドイツに滞在して学校に通うには仕事を得て滞在資金を得る必要があった。不法就労ではなく合法的に働く道は容易ではなかった。海外で就労するには日本における無犯罪証明が先ず必要で、就職先を見付けその国の滞在許可を得る必要があった。不法にユースホステル等でアルバイトをするのは簡単ではあったが仕事内容と低賃金が最大の問題であった。
デュセルドルフはヨーロパにおいて日本企業の支店や駐在員事務所が一番多いことで知られていた。その為仕事を見付けられる可能性も大きかった。日本食レストランのある日本人倶楽部に行くと求人ビラが貼られていた。その中から何件かに問い合わせをしたが時期が悪かった。丁度クリスマス前で担当者が日本に帰国していた。そんな事情とドイツではユースホステルがクリスマス期間中閉鎖になり一時的に出国することにした。デュセルドルフよりケルンを経てアーヘンへ向かう。アーヘンは9世紀から16世紀までフランク王国の中心都市として栄えた町である。市の中心にある大聖堂を見学する。さらに確認のため町外れのユースホステルへ行ってみる。やはりここのユースホステルも間違いなく休みであった。仕方なく町の中心に戻り観光案内所にて泊まるホテルを探す事にした。案内所で係員と話をしていると入ってきた男がいた。IRMA WINKLERというペンションの経営者で、男についてペンションに行く。今まで宿泊したホテルで一番粗末なベット以外何もない部屋で朝食付き15DMであった。これ以上捜すのも面倒であったので仕方なく泊まることに決めた。
当時ドイツのユースホステル宿泊料金は3.5DMから7DM位まで、ペンションやホテルは安くても朝食付きで15DM以上はしていた。やはり相部屋ではあるが安いユースホステルは貧乏旅行者には魅力であった。ドイツにおけるクリスマス前の町の賑わいは日本の師走に似ている。クリスマスには商店が閉まるためか人々は食料品やプレゼントの買い物に勤しんでいた。街角ではギター、ハモニカや手回しオルガンを演奏してお金を得る人々や、露天商の張り上げる客引きの声が辺り一面に響きわたっていた。
20時過ぎに再度大聖堂へ行く。クリスマスイブのミサで聖堂内は着飾った人々で混雑している。太陽の光がステンドグラスを通して差し込むように造られている薄暗い聖堂内は昼間と違い電気が明るく点灯し、司教の話す言葉と、賛美歌が響き渡り、若い僧侶が振り蒔く甘い香の匂いでムンムンとしていた。ドイツにおけるキリスト教という宗教の実体を肌で感じ、意味の解らぬ説教を聞くのに飽きて1時間ほどで外に出た。町はイブの夜のせいか人通りも少なく静まり返っていた。クリスマスになると街角に小さな小屋が設え洋服を着せた若いマリア像が飾られている。小屋は豆電球と花々で飾られローソクが立てられている。派手やかな白いドレスを着たマリア像は艶めかしく私はしばし見入っていた。
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ベルギーの田舎町を訪ねる
アーヘンより西方20kmにあるベルギーの町EUPENへバスにて向かう。国境では警備員がバス内に入ることもなく難なく入国する。以前この地はドイツの領土であったとペンションの親父が話していたが小さな町である。国境近くから牧草地が多くなり牛が草を食んでいる。観光案内所は閉まっていて地図など手に入らず人に聞きながら町外れのユースホステルに行き着く。ところがここはクリスマス休暇の子供達で満員で泊まれず、40kmほど離れた他の町にあるユースホステルを教えて貰う。EUPENからVERVIERSを経てSPAへバスと電車の乗り継ぎで4時間ほど掛かり夕刻に到着する。駅より買い物客で賑わう市街地を抜けてユースホステルへ向かう。緩い坂を上っていくとゆったりとした敷地に住宅が建っている。坂の中間にホステルがありここも子供達で混雑していた。SPAは名前の通り山間の温泉地である。SPAに2泊した後南東方向に20km離れたMALMEDYへ向かう。時間にも行程にも余裕があったので長い坂道の途中でヒッチハイクを試みる。待つこと10分程で会社員風の男性に拾われMALMEDYに入る。この町には自動車サーキットとスキー場がある。ユースホステルは新しい建物で積雪のないスキー場の側にあった。ここも子供達で一杯で泊まる事が出来ず、さらに言葉が通じず意志疎通に苦労したが親切に他のユースホステルへ宿泊可能か確認を取ってくれ、バスと汽車の時間まで調べてくれた。
MALMEDYの町外れよりヒッチハイクをして南西20kmのTROIS PONTSへ入る。ここも小さな町でしばし喫茶店に入りお茶を飲みながら休息する。ここからユースホステルのある町VIELSALMまでは12km余りで鉄道がある。途中の小さな村まで車に乗せて貰った後深い森中の道を小雨も苦にせず歩く。やっと辿どり着いたホステルは閉まっていて、開くのは17時からと解り時間まで町中を散策する。
ベルギーの東部地方は丘陵地帯で一面木々に囲まれている。森の中に町や村が点在する自然豊かな地域である。クリスマス休暇で高原歩きや歩いて旅する人々がいた。VIELSALMには温水プールがありブリュウセルからの小学生20人と知恵遅れの青年10人余りが介添えの人々と合宿していた。小学生グループと一緒の席で食事をした後食堂の片隅にあるカウンターでビールを飲みながら小学生達と話をする。普段外国人と話す機会がない為か質問責めになる。「東京にプールはいくつあるのか」「貴方は何しにここに来ているのか」等と聞かれ、漢字を書いたり柔道の話などをして過ごす。今日はルクセンブルクへ行く予定を立てた。土曜日であったので最低2日間を過ごす現地通貨が必要である。休日に外国に入国すると両替できない可能性がある。その為ルクセンブルクフランに両替しようと思ったがこの町の銀行にはないという。仕方なく10マルクをベルギーフランに両替してベルギーに留まることに決める。同じ町に滞在するのを辞めて更に南下することにした。
町外れで魚を運んでいる保冷車に拾われ途中の分岐点まで、そこから乗用車に拾われHOUFFALIZEのホステル前まで乗せて貰う。1時間余りの旅であった。
ユースホステルは学生グループが去った後でガランとしていた。このホステルは小規模な家族経営で夫婦と5歳位の男の子がいた。婦人は京塚昌子のようにふっくらとした人で、主人は気の良い普通の体格の人であった。このホステルはレストランも兼ねていて夕食時間には余所からお客さんが来た。パリの大学で日本語を勉強している二十歳ぐらいの可愛い少女が友達と食事に来た。早速日本語で話す。2年後には東京に行き日本語を勉強する計画を立てていると話していた。翌日、日本語の勉強を見る約束をする。少女はホステル近くの真新しい木の香りのする別荘らしき家に住んでいた。呼び鈴を押すと派手やかな母親が室内に迎え入れてくれた。10時頃より3時間余り読み書きを見てあげる。漢字も勉強していて小学低学年位は拾得していた。近くで見る少女は幼な顔に頬を林檎色に染めていた。少女は明日この地を離れるとのことで私も離れる決意をした。
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小国の悲哀
ベルギー国は人口は約1000万人、1830年に正式に独立を勝ち取るまでフランス、オランダ、オーストリア等に統治されてきた。ベルギーは民族的に南北に別れており首都のブリュウセルを境にして北はオランダ系のフラマン語を話し、南はワロン系のフランス語を話している。さらに東部にはドイツ語を話す地域もある。近代は大国ドイツとフランスに囲まれ翻弄されてきた歴史がある。ナポレオンがイギリス軍と戦い敗れた地ワーテルローはブリュセルの南にある。
ドイツ国内では見ることのない第一次、二次世界大戦の戦災慰霊碑がこの国では多く見られる。1944年6月6日にノルマンディに上陸したアメリカ、カナダ、英国の連合軍が3ヶ月かけて進軍しHOUFFALIZE近辺でドイツ軍と激しい戦いがあり多くの死傷者が出た。HOUFFALIZEの近くには連合軍戦死者の墓があり街角にはドイツ軍戦車が展示されている。
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国境を歩いて越える
島国に育った私には小さい時から外国は海の向こうという概念が染み込んでいる。そして日本に住んでいて感じる国境は海そのものである。しかも余所の国は見えない、水平線の向こうにあるらしい。日本列島の東側は太平洋で余所の国は本当に海の彼方である。そういう面では日本は地球の辺境の地にあるといえる。しかし住んでいる人は自分が辺境に住んでいるとは思っていない、自分の住んでいる所が世界の中心なのである。
ユーラシア、アメリカ大陸にある国々の国境は山脈であり、川であり、ただの平原であったりする。そして長い歴史の中で砂漠の砂が移動するように国境も力関係で複雑に変化してきている。スイスの地図を見ていてチューリッヒ北方のラインホール近くにドイツの飛び地を見付けたときは、驚きと共に人間の知恵と妥協を感じずにはいられなかった。HOUFFALIZEの町外れからルクセンブルクの北に在る町CLERVAUXに向かいヒッチハイクをする。最初に乗せてくれた人は2km余りで自分の家の前までだった。幹線道路ではない田舎道を選んだ為にほとんど車も通らない。仕方なくそこからは牧草地の中の1本道を南に向かって歩くことにする。12月最後の日で天気も悪く昨夜は冷え込んで木々には霧氷が付着している寒い日であった。
途中手持ちの地図には載っていないローカル線の駅TAVIGNYがある。駅舎内を覗いてみるが駅員もいない。時刻表を確認すると日に数本の列車しか走っていない寂しい路線だ。二人の少年が中で遊んでいた。突然の異邦人の侵入者に驚いて此方を凝視している。
更に一本道を歩いていくと道が分岐した。CLERVAUXまで15kmの地点である。小さなホテルのカフェでホットミルクを飲み休む。その地点で1時間ほどヒッチを試みるが車は止まらず諦めて歩くことにする。畑の中の道を歩いていると標識があった。ベルギーとルクセンブルクの国境である。両国を仕切るフェンスさえない。当然国境警備の建物も遮断機もない。変わったのはルクセンブルク側の道路に中央線が引かれていることだけだ。車で走っていれば気付かないほどの違いしかない。これではまるで日本の県境みたいな物だ。国境を越えて歩いていると犬を乗せた人に拾われ2km先の分岐点まで行く。分岐から霧氷の続く美しい道を歩く。空が薄暗くなりかけ、後4kmの地点で男女二人連れの車が私の側を通り過ぎバックで戻ってきて拾われCLERVAUXに入る。全行程26km、歩いた距離は18km余りであった。
CLERVAUXの人口は1000人余りで丘の上に修道院、教会の側にアメリカ軍の戦車とドイツ軍の大砲が飾ってある静かな町である。ユースホステルの宿泊客はモペットで旅するデュセルドルフから来たドイツ人青年と私のみであった。1973年の大晦日をこの青年と近くのパブに行きビールを飲みながら話して過ごすことになる。
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アメリカ軍シャーマン戦車, Clervaux |
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ルクセンブルク
年が明けた朝ドイツ人青年とホステル前で別れる。ヨーロッパではモペットは自転車と同じ扱いだ。ナンバープレートも付いていない。2サイクルエンジンの音高く白い煙を吐いて彼は走り去った。1日は休日である為町中は静かで歩いてる人も少なく車も通らない。町中を見学した後町外れにある駅へ向かう。CLERVAUX駅より列車にて43km南にあるMERSCH駅へ向かう。駅よりユースホステルのあるHOLLENFELS村までは車に乗せてもらう。小さな村で川の側にホステルになっている城とパブが一軒ある。夜になってオランダ人の少女2人とパブに出かけビールを飲む。新年の為か店は地元の人々で混雑していた。東洋人は私一人で彼等の興味を引いたようだが言葉が通じない。HOLLENFELSよりKEISPELTまで4kmを歩き、更に森林と畑の続く道を4km歩きKOPSTALに着く。ここよりベンツに乗せて貰いルクセンブルク市に入る。ルクセンブルク市は人口8万人余りの首都である。町の真ん中に深い谷があり3本の橋が架かっている。谷は公園に整備されていてこの町に立体的変化を作り出している。谷の斜面に要塞の跡があり慰霊碑がこの国の歴史を教えてくれる。
町を歩いていると日本人の青年に会う。今日アメリカより到着したばかりだという。安い航空券の到着地がたまたまルクセンブルク市であったと話していた。これからヨーロッパを旅行して日本に帰るという。
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マルクスに会う
ルクセンブルク市より列車にて1時間余りで夕刻のトリアー駅に到着する。トリアーはモーゼル川に面し古代ローマ人により築かれた古い町である。町中にはローマ時代に建築された黒い門、大浴場等が残っている。中央駅よりモーゼル川近くにあるユースホステルに向かう。途中方向を見失い若い女性に道を聞く。ホステルではCLERVAUXにて会ったドイツ人青年と再会する。翌日古代ローマ時代の遺跡や博物館を見学した後にカールマルクスの生まれた家に行く。マルクスは1818年ここでユダヤ人弁護士の子として生まれ、フランス、ベルギーを経て1849年ロンドンに亡命、1883年ロンドンで死亡し墓もロンドンの共同墓地にある。手持ちの観光案内書には説明もなくマルクスがこの町で生まれたとは知らなかった。それよりも受付の女性が昨日道を聞いた人だった。彼女はニッコリ笑って迎えてくれた。この博物館には写真、パスポート、著作本等が展示されていて、インターナショナル、パリコミューンの写真が私の興味を引いた。
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