アフガニスタン概要
アフガニスタンのイスラム原理主義勢力、タリバーンによる仏教遺跡の破壊活動が、世界の注目を集めている。しかし諸外国の警告にも係わらずバーミヤンの大仏は、偶像崇拝を極度に嫌う原理主義勢力により、2001年3月に破壊されたようである。アフガニスタンは1973年7月に王制から共和制に移行、1978年には軍事クーデターの発生、1979年12月ソ連軍の参入、1988年4月に駐留ソ連軍の撤退へと経過する。その後ムジャヒディーン連合の混沌、パキスタン軍に援助されたタリバーンの台頭となる。この間、長期間内戦状況が続き、一般旅行者が訪問できる状況にない。
2000年の人口は2600万人、パシュトゥン人38%、ダジク人25%、ハザラ人19%、ウズベク人6%、その他12%である。
イスラム教の宗派は、スンニー派84%、シーア派15%である。
国土は652,000平方キロで日本の1.7倍、耕地12%、放牧地46%、森林3%である。1974年9月、私はイランの"MASHHAD"より国境を越え、アフガニスタンの"HERAT"に入る。さらに"KANDAHAR"、"KABUL"と旅をして注目の地、"BAMIYAN"を訪問することになった。
アフガニスタンは国家体制が王制から共和制に変わり、1年ほど経過した時期であった。しかし治安は思いのほか悪くなく、"KABUL"には多数の若い欧米系旅行者が滞在していた。彼らはインド、ネパール、そしてオーストラリアを目指していた。インド、ネパールはヒッピーの憧れの文化及び自由の地であり、オーストラリアは欧米人を労働力として受け入れる稼ぎの場であった。石油の取れる豊かな隣国イランと比べると、アフガニスタンの貧しさは顕著であった。国境を越え入国手続きの事務所や、役人の服装などからその違いを強くに感じさせられる。さらに貧しい国では一般的に町の商店や工房等で、10歳に満たない子供達が丁稚として働いていた。
アフガニスタンには商用で長期滞在する日本人も少数ではあるがみられた。
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バーミヤン
首都"KABUL"の俗称チキンストリートには、外国人旅行者相手の土産物店が両側に並ぶ。この近くには貧乏旅行者やヒッピー相手の安宿があった。私はその中で比較的日本人の集まる安宿、ナショナルホテルに泊まっていた。安宿の従業員は片言の日本語を話し、日本人が外出する時に「トモダチドコイク」と話しかけるのが常であった。その日は朝3時に起き、暗い夜道を5人の日本人と共に、バスターミナルへ歩いて向かった。使い古され塗装の剥げたマイクロバスは4時にほぼ満員となり出発した。"KABUL"より舗装されたアジアハイウェイを北方64kmの町"CHARIKAR"へ向かう。"CHARIKAR"からアジアハイウェイを左に折れ、川沿いの未舗装の埃っぽい道を"BAMIYAN"へ向かう。50km程走ると"LANGAR"に着き、ここでバスは休憩する。
私達は道路沿いの店屋をのぞいて歩く。パン屋が慣れた手つきで、アフガンパンを窯で焼いている。球形の薪釜の上部に丸い開口があり、ここより捏ねたパン生地を延ばし、釜の内壁に張り付ける。30cm程の細長い焼き上がったパンを売っているのだ。
"LANGAR"からさらに西に進むと道は川から離れ、正面の尾根に取り付き、"SHIBAR"峠への道となる。この峠は標高2987m余りある。天井に乗せた荷物と満員の乗客を乗せた小型バスは、喘ぐように登っていく。さらに峠を下ると、川沿いに生えたポプラの木々が見えてくる。
この周辺の土地は青空以外の目に見える物は総てが茶色である。その中にオアシスの緑が鮮やかに見えてくる。細い川の流れがあるところに木々や穀物が生育し、人が住み着いている。
"KABUL-BAMIYAN"間は240km余りあるが、未舗装の道を休みながら進み8時間を要した。バスは"BAMIYAN"に昼過ぎに着いた。私達は町の入口近くにある一軒の安宿に入り荷物を置いた。さらに高さ55mの西大仏を見学に行く。1500年以上たった黄土色の石窟大仏は、近くで見ると風化し、顔は削ぎ落とされ、足元が破損している。入場料AF10(約60円)を支払い、石窟左側面に掘られた階段を上った。所々にある明かり取りの窓から射し込む自然光を頼りに、注意しながら磨り減った階段を上がる。
階段は仏像の頭上に通じていて、人の通れる大きな穴がぽっかりと空いている、開口部と仏像の頭部とは長さ2m、幅1m程の柵もない細い通路で結ばれている。これを恐々渡ると大仏の頭上に立つ事が出来る。頭の中央に立ちバーミヤン盆地を眺めると、緑豊かで悠久な歴史の里を眼下にすることが出来る。
頭上のドーム天井には太陽神スーリヤ等が描かれていると言われる。しかし描かれた壁画は漆喰が剥がれ、色が落ち、頭部などが故意に破壊されている。絵画は痛みが激しく鮮明でない。大仏を見た後に石窟群のある崖の上に登る。崖上には砦の跡らしき土の囲いがあり、遠くに高山が眺められる。
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丸く見えるアーチは石窟の天井 |
バーミヤン盆地を望む |
バンディアミール
早朝6時のトラックに乗り"BAMIYAN"の西100kmにある観光地"BANDE AMIR"へ向かう。道はバーミヤン谷に沿って進み、その後3538mの峠に向かい緩やかな登りとなる。峠からは眼下に"BANDE AMIR"の青い湖と遠くに山が見渡せる。峠を下っていくと真っ青な湖が大きく広がってくる。褐色の大地を超えてきた目に水の青さが強烈に浸み入る。"BAMIYAN"から小型トラックの荷台で揺られる事3時間余りで"BANDE AMIR"に到着した。"BANDE AMIR"には3つの湖があり、中央に位置する湖近くには観光客用に4.5件の宿泊施設、食堂等があった。私達はその中の一軒の宿、カブールベイカリーのテントに泊まる事にした。
テント村より少し離れた山の斜面にへばり付くように村がある。そこには土を捏ねて作られた家がある。廻りでは半砂漠の土地に生える少ない緑を求めて、子供達が山羊や驢馬を放牧している。昼過ぎに子馬を連れた雌馬を、AF50(約300円)にて借りる。この馬に乗り湖の周りを並足で走らせながら散策する。子馬が私の乗る親馬に戯れ付く様に右、左と付いて回る。湖の片側は土盛りされたダムのようになっている。そこから幾筋もの水が溢れ出し、小さな湿地帯を作り出している。
乗ってきたトラックと西洋人の姿も見える |
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集落と放牧された山羊と驢馬 |
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パンジャオ
翌日の午後、"NAIAK-PANJAO"経由で"KABUL"へ戻ることにした。同じ道を戻るのは旅として面白みがないからだ。"PANJAO-KABUL"間は225km余りで、自動車道が地図に明示されている。「バス便がある」とのトラック運転手の話を信じたからだ。
"NAIAK"は"BANDE AMIR"の西30km、"PANJAO"は"NAIAK"の南50km程の所にある。トラックには既に5人の白いターバンを頭に巻いた放牧民らしき男達が乗っていた。"NAIAK"から"PANJAO"への道は地図には点線で表示され、"CARAVAN TRACK"と記載されている。これは正式な自動車道ではないようだ。途中には4000メートルを越すいくつかの峠を越え、橋のない川を横切る。ソ連製の四輪駆動車が、人を乗せては登れない急坂な峠を越える5時間ほどの道のりであった。
"PANJAO"への途中には放牧民の継ぎ接ぎだらけのテントがあった。この周りに山羊、ロバ、馬、駱駝が草をはむ姿がみられ、数匹の猟犬が吠えながらトラックに向かって来た。さらに駱駝にテントなどの家財道具を乗せ、女達は馬やロバの背に乗り移動する放牧民一家に出会った。何千年も変わらないであろう放牧民の姿を垣間見ることが出来る地域であった。夕刻に着いた"PANJAO"は何もない小さな村であった。観光客を目当てにしたテントが数張りあったが、一人50AF(約300円)と足元を見た金額であった。その晩私達は食事をした茶店の電灯もない一室で寝ることにした。値段は4AF(約24円)と安いが、土間に汚れた粗末な絨毯が敷いてあるだけであった。当然布団などと呼べる物はない。同行の何人かは寝袋を持っていたが、私は持ち合わせていないので、手持ちの衣服総てをまとい眠りについた。
夜中に店の者が覗きに来たりしたため、警戒しながらの浅い眠りであった。朝起きて鏡を見ると顔や手の露出していた部分が虫に喰われていた。惨めで寒い散々な一夜であった。翌朝"KABUL"へ行くバスはないらしいことが解る。仕方なく昨日と同じトラックに乗り"BAMIYAN"へ戻ることにした。このトラックは放牧民の客がいたからこの村へ来たに過ぎない。私達は運転手に上手く乗せられたのだ。結局"BAMIYAN"へ行く客は私達のみであった。
"BAMIYAN"に1泊し、翌早朝混雑したバスに乗れず見送る。次のバスはなく、昼近くに客待ちの運転手と交渉の末、ソ連製の乗用車にて"KABUL"へ戻る。
全行程5日間でかかった費用はAF950(約6000円)であった。
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タイヤがパンクして交換 |
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