貧乏旅行の話

33.シニアバックパッカー

シニアバックパッカー

ラオス最北の町ウータイ

シニアバックパッカー

 一般的に海外を個人旅行しているのは若者が多い。その若者達の旅行スタイルはバックパッカーである。彼等の旅行方法は節約型だ。手頃な宿に泊まり、少しの距離であれば歩くことも辞さない。そのような旅行に、このバックパッキングは重い荷物を両手に持つことなく合理的だ。

 何処の国でも若者は比較的に自由な時間を持てる状況にある。若いと言うことは好奇心が強く、向上心があり、正義感が強く、知識欲も強い。自分の将来の方向に悩みながらも希望の持てる年代だ。自分の進むべき道に迷い、気分転換を図るために、将来を考えるために、社会勉強も兼ねて、日常生活、親元から離れ旅に出る。

 短期旅行をしている若者は大学生であれば、夏期休暇や年度末の休暇を利用し、社会人であれば夏期休暇や、クリスマス休暇を利用している。しかし3ヶ月以上の長期旅行をしている若者は、大学生であれば大学を休学していたり、社会人であれば会社を退職している者も多い。徴兵制度のある国では期間終了後に休暇を取り旅に出ている。
 先進諸国の若者はアルバイトなどをして、容易に旅行資金を貯めることが可能だ。その資金で滞在費が安く、長期に滞在できるアジア諸国を目指す人も見られる。

 社会人となり会社に就職している人々は、何処の国でも1ヶ月を越す休暇を取るのは難しい。会社の中でそれなりの責任と地位を得ているからだ。そして、長期休暇中に自分の地位が脅かされる可能性もある。一般的に長期旅行をしている社会人は定年退職した人や、自営業など比較的に自由の効く人々だ。
 長期有給休暇が取りにくく、英語が苦手な日本人の社会人旅行者は、欧米と比べ絶対的に少なく感じる。

 そのような若者達に混じり、中年世代も個人旅行をしている。今回の旅行中に若者ではない旅行者と行動を共にする機会が何度かあった。
 ベトナム旅行中に何度か会った、オランダ人のおじさんはバックパッカーだった。16歳より働き初め、60歳で定年退職する。その後、年金を利用して、数年間の世界旅行中であった。そして、旅行中に英語も流ちょうに話せるようになったと言う。
 同じベトナム旅行中に、ツアーで一緒になった、カナダ人の中年男性は会社を辞め、株取引でお金を稼いでいると話していた。

 ビルマ、ラオスで会った中年のフランス人女性は旅行会社を休職し、アジア諸国を旅行していた。2004年12月のインド洋大津波にもタイプーケット島で遭遇し、命辛々逃げ出したという。
 ラオス旅行中に会ったイスラエル人で旅行記を執筆している男性、スエーデン人でラオス国内を自転車旅行をしていた男性、ドイツ人の研究者で日本に長期滞在した経験を持つ男性。ドイツ人の工場労働者で、6週間の休暇を取るために、数ヶ月間は土、日も働くと話していた男性などいろいろだ。60代半ばのスイス人男性もザックを背負い、カメラを提げて旅行していた。

 今後、日本においても定年退職後の旅行者は増加するであろう。資金と時間に余裕のある人は豪華な旅行をするであろう。しかし、それはあくまでも、国内旅行や海外パック旅行であって、急に日本人シニアバックパッカーが増加するとは思いがたい。
 年金制度が改悪され、受給開始は65歳にずれ込む。定年退職をしても、半数以上は引き続き働くことを選ぶであろう。何割かの人々は会社で働くことを止め、趣味の世界を楽しむであろう。さらに自由を得た何割かの人々は長期旅行に出かけるかも知れない。しかし、個人旅行に出るには家族の理解、自由な時間、金銭的余裕と共に、計画を立てる企画力、そして旅行中の体力、気力も必要となる。

 そして最低限の英語力も必要とされる。多くの日本人はこれが最大のネックと思われる。英語の通じにくい国でもホテルや交通機関の予約などは英語だ。旅行者間の会話も一般的には英語が利用される。そういう面で英語は「旅行者共通語」である。
 このような状況を考えると、団塊世代の人々が定年を迎え、日本人シニアバックパッカーとして、世界に旅立っていくかは大いに疑問だ。
 かつて若かりし頃バックパッカーだった知人も、個人旅行に出かけるのを躊躇している。やはり容易ではないのだ。それだけ個人旅行には不安が伴い、ハードルが高いといえる。
 
 旅行に多くの資金と時間を浪費するのは、無駄との考え方も当然あり得る。そしてこれも当然だが、皆が旅行好きとも思えない。観光旅行はあくまで個人の趣味の世界だ。長期旅行を苦痛に感じる人もいるのだ。
 インドなどでは老年期に家族や俗世から離れ、人の生きる道を模索放浪する、サドゥー(出家行者)などになる生き方もある。彼等の持ち物は布鞄、腰巻きと杖だけである。
 日本人も会社人間から解放され、自由な時間を何をして過ごすか、各人の生き方が表れることになろう。

ラオス最北の町ウータイ

 私がウータイを知ったのは、ルアンパバンで売られていた、一枚の絵葉書からである。絵葉書の中央に一本の茶色い細道が走り、道の両側は黄金色の水田が広がる。手前には水牛に乗った少年が家路に向かう。正面に古い茅葺き農家の三角屋根が整然と並び、その奥には緑豊かな、なだらかな山が広がる。私はその伝統的風景に魅了された。そこはラオス辺境の桃源郷に見えた。そして、いつか行ってみたいと私は思った。

 その絵葉書を見てから2年ほど経過した2005年初旬、ラオス北部を旅行する計画を立てた。今回は事前に1ヶ月間有効の観光ビザをチェンマイにて購入した。料金は1150バーツ(約3300円)であった。ラオスでは外国人旅行者の増加と共に、容易に国境にてビザの取得が出来るようになった。しかし、この観光ビザは通常15日間有効で、料金は30米ドルであった。15日間以上の長期滞在を希望する人は、事前にビザを取得する必要がある。この料金は国によって違い、無料の国も存在する。
 ラオス入国後、滞在期間の延長も可能であるが、出入国管理事務所へ出頭する必要がある。更に1日あたり3米国ドルの費用がかかり、結局は安くはない。

 私はタイ北部よりメコン川を渡り、ラオスに入国した。さらに、"Muang Xai(Udomxai)"より早朝のトラックに乗り、"Phongsali"へ向かった。ここで目的地の詳細情報を探すことにする。宿泊したゲストハウスにて"U Tai"への交通機関、宿泊施設などを確認する。しかし、詳細を知る人はいない。ここの人々にとって観光旅行は一般的ではないのだ。知らなくて当然と私は考えることにした。

 地図で見ると"U Tai"への道は、"Phongsali"の西に位置する村"Bun Neua"より分岐する。明日早朝の出発を嫌い、私はこの村に一泊することに決める。さらに銀行にて両替後、荷物を持ち、歩いてバスターミナルに向かう。長距離バスは既に早朝出発していた。5‐6人の現地の人々と共に次のバスを待つことにする。午後になりラオス‐中国間を結ぶ国際バスが来た。私はこれに乗り"Bun Neua"へ向かう。"Phongsali"は標高1500メートル余りの、山の上に位置する町である。山道はここより尾根ずたいに"Bun Neua"へ降りる。

 バスターミナルにてバスを下車し、今宵の宿泊施設を探す。ゲストハウスの一軒は木造で小さな部屋に、ベットと蚊帳のみが置かれた、粗末な木賃宿であった。ここは宿泊をためらい、さらに歩いた所にある大きなゲストハウスに決める。部屋にはシャワー、トイレも付いており、この国では標準的な物である。
 バスターミナル近くは町の中心で、舗装された道路沿いに木造家屋が建ち並ぶ。バスターミナルの周囲には雑貨屋や、食料品屋などの小さな店屋が並ぶ。しかしそれだけなのだ。土産物屋の看板を頼りに丘に登ってみるが、開いている様子はない。ここに滞在する観光客は少なく静かであった。

 この村への電気供給は夜間の数時間のみであった。しかし、村外れには携帯電話用の高い鉄塔がそびえる。これも時代の流れであろう。ゲストハウスの2階ベランダより外を眺めると、遠くに低い山並みが見られ、眼下に水田が大きく広がる。夕暮れには浅い谷に霞がたなびき、水牛が草を食んでいる。村人は家庭菜園にジョーロで丁寧に何度も水を蒔いている。

 翌早朝、飼育されている家畜の鳴き声で目を覚ます。朝靄の立ちこめる田園の片隅で、男達が集まり豚の解体をしている。豚は自分の行く末を知ってか、激しく悲しげに「ビービー」と鳴いていた。この村に電気の供給がないため、肉類の長期保存は難しい。バスターミナルでは解体された頭と足が並べられ、売られていた。

 村の北部には"Phongsali(Bun Neua)"飛行場がある。しかし、現在は週2便"Vientiane - Phongsali"間に中国製Y12小型機が飛行している。飛行場から"Phongsali"へ直接行く交通手段がないため、歩いてこの村のパスターミナルへ向かう必要がある。飛行機を利用したとしても"Phongsali"へ行くのはかなり不便である。
 村には"Vientiane - Phongsali"、"Muang Xai - Phongsali"間を結ぶバスやトラック、中国への国際ミニバスも通過する。
 

 やはり"U Tai"へのトラックの出発は10時であった。荷台に荷物と人を乗せトラックは出発した。村落を抜けると、道は山間部に入る。道路は未舗装で、乾期は土埃がひどい。途中小さな村で昼の休息を取る。トラックは乗客を乗せたり、降ろしたりしながら進んだ。乗客は何もなさそうな所でも下車する。道路から離れた場所に集落があるようだ。途中大きな集落の脇をトラックは通過した。農家が細い道の両側に整然と並び、村外れには水田が広がる。

 トラックは尾根筋の道を喘ぎながら登る。山の斜面には桃色の花が咲いている。峠を越えると急に視界が開けた。眼下に大きな盆地が広がる。その中央に集落らしき家々が小さく見える。トラックは山沿いに高度を下げて降っていく。盆地に入ると周囲は水田が広がる。しかし、2月では水田に水はなく、稲も見られない。盆地の中央をトラックは走り、橋を渡り、商店のそばで停車した。乗客が立ち上がり、荷物を下ろしだした。私は"U Tai"かと乗客に訪ねる。そして、ここが目的地と知る。

 私は荷物を持ち、ゲストハウスを探すべく、方向を定め歩き出す。そしてあの絵葉書で見た、憧れた景色に出会う。自分が目的地に着いたことを改めて知る。しかし、私の見た景色は絵葉書とは違っていた。多くの農家の屋根は白く光るトタン板に変わっていた。
 茅葺きがトタン板に変わるのは、便利さと効率、金銭的な問題もあり得る。それは旅行者の身勝手な旅愁かも知れない。ラオス最北の町にも近代化は訪れている。ラオス中央からは遠く離れても、国境を越えればそこは中国である。

 私は町外れのゲストハウスに落ち着く。別棟には食堂もある。ここには中国人の商人が宿泊していた。宿の女将は中国語を話していた。
 この町に電気の供給はない。私の宿泊したゲストハウスは発電器を持っており、夜間のみ電灯をつけていた。盆地全体が夜は真っ暗闇であった。夜間は行き交う人もなく静かであった。そして、天気が良ければ空は満天の星であろう。

 私はこの町に2泊し、町中や郊外を散策した。町外れには大きな学校もある。子供達は写真を撮られるのがいやなのか、私を見ると逃げ出した。町を出ると、山の斜面にへばり付くように建つ部落もある。その部落へ行こうとしたが、ウー川に架かる丸太橋が渡れず断念する。
 農閑期で、町中では住宅や、小さなお堂が建設中であった。私以外の観光客の姿はなく静かであった。

水田が広がる、Bun Neua
 町の中心への道、U Tai
 
部落に立ち寄る、U Tai
仏教寺院、U Tai

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