貧乏旅行の話

20.外国に暮らす

外国に暮らす

カルチャーショックを受ける

外国に暮らす

 現代人にとって老後を何処で暮らすかは大きな問題だ。仕事を持っていれば住む場所もそれに縛られる。家庭があり子供達が独立していなければ、やはり動きようがない。しかし、会社を定年退職し子供達が独立すれば、自由の身となり何処に住んでも良いことになる。これも核家族化の影響であろう。

 昔のような大家族では、何処で暮らすかなど考える必要もなかった。老後も先祖伝来の畑を耕し、暮らしていけばそれで良かった。技術の近代化と共に都市移住者が増加し、終の棲家ではない都会を離れ、快適に老後を暮らす場所を探す必要が出てきた。しかし日本の地方は未だ閉鎖的で余所者を受け入れたがらない。自然と交わり、農業をしたいと思っても土地が手に入らないのだ。又、地方であっても土地や住宅が高いのは大きな障害だ。それならば物価も安い外国に住もうと考える人も出てくる。

 経済成長と共に日本円の対外的価値が上がり、海外旅行がブームとなる。多くの人が余所の国を体験している。これも大きな要因だ。移住先として景色が良く、気候が快適で、物価が安く、住民が親切で、治安が良く、医療施設が充実して、日本食品が手に入る場所などの条件を満足する所はかなり限られる。
 快適な場所が見つかったとしても、そこで何をするかも問題となる。これは日本に住んでいても同じことだ。余生を静かに、読書や趣味の世界でのんびりと暮らしたい、農業をしたい、人の役に立ちたい、金儲けをしたいなど人それぞれだ。
 しかし良く考えてみると言葉も満足に通じない、友達もいない外国で暮らすというのはかなり難しそうだ。健康で自由に動き回れる内はまだしも、そうではなくなった時がさらに問題だ。

 今回の旅行で私はマレーシア半島のほぼ中央にあるキャメロンハイランドを訪ねた。クアラルンプールよりバスにて4時間余りの所にある避暑地だ。周囲を緑豊かな山々に囲まれた小さな町だ。標高は1500メートル余りあり、朝晩はかなり涼しい。ホテルの部屋にクーラは設置されていない。必要ないのだ。首都から近いために週末は避暑客で混雑する。
 ここはタイのシルク王と呼ばれたアメリカ人ジムトンプソンが、1967年3月行方不明になった所として有名だ。

 ここにはゴルフ場や周囲の山々にハイキングコースが設けられている。周辺地域では高原野菜、イチゴ、お茶などが栽培されている。町中のレストランには日本語のメニューが置かれていた。日本人滞在者が多く来るからである。
 キャメロンハイランドの中心的な町"Tanah Rata"よりさらに奥にある町"Brinchang"に行くためバスに乗ると日本人老夫婦が乗っていた。老夫婦はバスを途中のコンドミニアム前で下車した。彼等はここに長期間滞在していると話していた。さらにハイキングをして舗装道路に出ると中年の夫婦に出会った。彼等はホテルに長期滞在しているようだ。

 この地は本などで日本人に紹介され、かなりその手の人々には有名な所らしい。その後、町中でも数人で行動する中年の日本人を何人も見かけた。中年の男性達はゴルフを楽しみに来ているようだ。
 今回のボルネオ島一周旅行ではほとんど日本人に会うことはなかった。1月から2月は学生達の旅行時期ではない。ましてや若者と違い年齢の高い人々がこんなにいるとは知らなかった。

 私はキャメロンハイランドに2日間滞在した後"Ipoh"へバスにて移動する。バスターミナルより歩いて鉄道駅へ行き、ステーションホテルに泊まることにした。このヘリテージホテルは古い駅舎の2階部分にある。天井は高く、部屋前にあるバルコニー風の通路は広々としている。
 ここに日本人で60代後半の夫婦が宿泊していた。以前、彼等はインドネシアのバリ島にいたが、治安や滞在ビザが変更されたこともありマレーシアに移ってきたのだ。これからキャメロンハイランドに行こうとしていたが、ホテル情報などの十分な予備知識を持ち合わせてはいなかった。婦人は太り気味で長時間の歩行や、階段の利用には制限があると話していた。

 日本でも外国でもホテルに長期滞在する場合には部屋代の交渉が必要となる。さらにコンドミニアムなどを購入するには現地の取引価格を知らなければならない。無知であることは無為に高い買い物をすることになる。
 キャメロンハイランドにも日本人価格が存在するという噂を聞いた。現地価格を知らずに高く購入したり、東京の住宅価格と比べて安いと感じる人々がいるらしい。

 移住しようとする国の外国人受け入れ態勢も問題となる。定年退職者に長期滞在ビザを優遇する国もある。一定の年金収入があることや、銀行に必要金額を振り込めば長期滞在を許可する国もある。
 昔、日本に於いて「シルバーコロンビア計画」と言うのがあった。1986年に通産省が発表した計画で、定年退職した夫婦が外国で暮らすという物だ。これはゼネコンなどによる日本人村造成計画であった。一部の国から老人の輸出と揶揄され、完全に失敗に終わる。現在はこれに代わりロングステイ財団が短期間の外国滞在を推進しているらしい。

 年金生活者とは別に若い人々も海外での生活を目指している。ベトナム旅行中に会った日本人女性はホーチミン市の日本語学校で日本語教師として働いていた。しかし賃金や労働条件はけして良いものではないようだ。就任費用は自分持ちで、月給は3万円余りと話していた。現地での生活に支障はないが、預金はできず、持ち出し状況にあるようだ。
 ホーチミン市のホテルで会ったイギリス人男性は日本での英語教師の経験があり、ベトナムで英語教師の仕事を探していた。彼の話より英語教師と日本語教師の賃金の違いに驚くことになる。

 かつては会社から派遣される海外駐在員は憧れの的であった。月々の給料とは別に現地滞在費が支給され、広い家と、お手伝さんが使える身分であった。そして3年や5年の任期が終わる頃には、日本で家が持てる資金が貯まることや、会社での上級ポストが保証されていた。
 しかし現在ではこの状況は様変わりしてきている。海外出張が一般化し、駐在も珍しくはなくなった。単身赴任も珍しくはなく、苦労多くして実り少なく、ポストも保証されない。駐在中に技術革新において行かれるなど問題点も指摘されている。現在は駐在地も先進諸国だけではなく、海外が左遷地となっている会社も出てきている。
 海外に暮らす憧れと、現実のギャップを考えざるを得ない状況のようだ。

アジア諸国の受け入れ条件

国名
年齢
所得(月額)
預金額等の条件
査証
滞在地
不動産所有
その他
マレーシア
50歳以上
RM10,000以上
単身者は
RM7,000以上
RM150,000以上
単身者はRM100,000以上
5年間
ペナン、キャメロンハイランド、ラブアン
観光目的で3ヶ月間
ビザなし滞在可能
RM1=\30
タ イ
50歳以上
65,000
バーツ以上
800,000
バーツ以上
1年間
パタヤ、プーケット、チェンマイ
不可
観光目的で30日間
ビザなし滞在可能
Bhat1=\3
フィリピン
指定されたコンドミニアムかホテルに滞在
1年間
バギオ、セブ島、ボラカイ島
不可
観光目的で21日間
ビザなし滞在可能
Peso1=\2
インドネシア
55歳以上
$1,500
以上の年金
$500以上の賃貸、$35,000以上の購入、インドネシア人の雇用
1年間
バリ、
不可
観光目的でもビザが
必要、30日間=$25
Rp10,000=\1.2

  注記:各数値は2004年4月現在、所得(年金など)又は預金のどちらかを満たせば可、

Cameron Highlands
Brinchang, Cameron Highlands
 
Labuan
Penang

カルチャーショックを受ける

 海外を旅行する目的は人それぞれだが、普段自分が住んでいる所とは違う物を見たい、体験したいと思う人も多い。そういう目的ではヨーロッパや北アメリカを訪ねることは余り意味がないかも知れない。
 現代の多くの日本人は西洋文明に余り違和感を持っていない。明治時代以降、日本人は西洋文明と西洋的価値観を取り入れ、それに十分慣れ親しんできているからだ。

 日本の学校で習う学問は現在でも西洋文明の習得であり、古来の日本文化を習うことは少なく思われる。日本で行われているのは西洋文化の宗教的とも思われる崇拝、洗脳である。それに反し東洋やインド、イスラム文化に対しては価値のないものと見なされ、自分で勉強しない限り無知に近い状況に置かれる。
 私が初めてヨーロッパを訪ね、博物館や美術館を訪問し、展示されているものを観賞し思ったことは「教科書に載っていたのと同じだ」であった。如何に一般的日本人が西洋文化を知識として持っているかである。

 鎖国政策の徳川幕府が倒れ、明治時代の初頭に宗教的、文化的変革があり、西洋文化の習得に反し、古い日本の文化が否定された。顕著に表れたのは神仏分離である。天皇を頂点とする天皇制、神道に反し、仏教は軽るんじられ、多くの寺院が廃寺となる。それにより寺院に帰属した多くの絵画や仏像など文化遺産が海外に流失した。
 今でも日本の古い文化は価値が無く、西洋の文化を有り難がる人々も多い。西洋のハンドバックなどのブランド品が慎重されるのは其処に起因しているのであろう。

 1974年3月、私はスペイン"Algeciras"よりジブラルタル海峡を船で渡りアフリカを目指していた。その船の中で若い一人の日本人男性と出会う。彼はアラビア語を習うためモロッコに行こうとしていた。
 その前年はアラブ諸国とイスラエルが戦う第四次中東戦争後のオイルショックに世界が見まわれ、石油価格が高騰する。彼はその後の世界を目ざとく感じ、イスラム圏へ語学習得のため移動しようと決意する。

 ジブラルタル海峡を渡っても"CEUTA"はモロッコではなくスペインであった。バスに乗り国境を越え"Tetouan"へ向かう。夕刻に到着したバスターミナルは現地人で混雑していた。バスの周囲は子供から大人までが取り囲み、何か叫んでいる。バスから降りてくる乗客の荷物運びや案内をすることにより幾ばくかの現金を得ようとする人々だ。
 彼はその喧噪の最中でパニックになっていた。混乱を起こした人間を私は見つめる。小利口そうに見えても非常時に自己コントロールができないのだ。
 私は善良そうな一人の少年を見つける。人を掻き分けやっとの思いでバスターミナルの雑踏から二人は抜け出す。彼の案内にて一軒の安宿に落ち着くことになる。

 この時が初めてのイスラム社会との鮮烈な出逢いであった。言葉も満足に通じない異文化の世界に身を置いたときに感じる強烈な印象を得る。明らかに西洋とは違う異質な文化を持った国であった。人々の服装、履き物、目つき、物事に対する反応、貧困、匂い、それら総てがヨーロッパとは違い、アラブそのものであった。
 狭いメディナの路地を歩いていると大人や子供から、「チナ」「チネス」と声が掛かる。明らかに東洋人を侮蔑した声が聞こえる。
 狭い道の両側には隙間無く並んだ商店、野菜、果物、菓子、パン、香料、雑貨などが並べられている。大人や子供の売り子が張り上げる声が雑踏の中に一際大きく響く。灰色の土壁に挟まれた、巾2メートル余りの狭い道が曲がりくねって、迷路のように続く。モスクからは節のあるコーランの祈りがスピーカで流れる。

 チャイハナの縁台に腰掛けて、ミントティーを飲みながら行き来する人々を眺める。「オラッ、オラッ」とロバの尻を叩きながら老人が行く。奥の薄暗い座敷では数人が輪になってハッシッシを吸っている。その甘い香りが風に乗って私の鼻孔をくすぐる。他のグループはトランプでゲームを楽しんでいる。男達だけの世界だ。
 町を行き来する人々の服装はフードの付いたマントが一般的だ。女性の服装もモロッコ北部はハンカチで顔を覆う程度であるが、南に下がると昔の少女漫画に出てくる薄い黒や赤などのベールで顔を覆う世界となる。女達は家にいて特別な用がないと外には出てこない。ここでは一般的な買い物も男達の仕事だ。

 子供達の生存競争も激しい。観光客を土産物屋や工場に案内しリベートを貰おうとする。客が買わなければガイド料を要求する。"Give me maney"と手が伸びる。10歳にも満たない子供が丁稚として商店などで働いている。
 食堂に入っても値段を確認しないと食事を取れない。後でいくら請求されるか解らないからだ。一時も隙は見せられない、「生き馬の目を抜く」世界だ。
 治安が悪く盗難に遭う可能性が高いのも大きな問題であった。鉄道駅にある荷物預かり所では鍵の掛からないザックなどは預かって貰えない。

 その後、私は日本人青年と別れ"TETOUAN - FES - RABAT - CASABLANCA - MARRAKECH"とモロッコの南部まで下がるが、体調を崩したこともあり、サハラ砂漠を見ることなくスペインへ戻ることになる。
 イスラム教は我々日本人の習慣とは馴染みのない部分も多い。一夫多妻(4人まで許されている)、ラマダン(日の出から日没まで一ヶ月間の断食、イスラム暦第9番目の月)、毎日の礼拝(一日5回、夜明前、正午過、午後、日没後、夜)、信仰告白、喜捨、巡礼(メッカ、カーバ神殿)などが実践されている。

 その他のイスラム諸国は日本へ戻る途中にエジプト、トルコ、イラン、アフガニスタン、パキスタン、インドを旅行するが、イスラム教は国、宗派、地域によりかなり違うことを知ることになる。その違いは女性の服装などに顕著に表れる。しかし男達の服装は余り制約はないことを知る。
 モロッコにおいても都会と地方の格差は大きく、首都ラバトのように近代的なビルが建ち並ぶ新市街と城壁に囲まれた旧市街の格差も驚くほど違っていた。それは住民の貧富格差として表れていた。
 エジプト、トルコなどの都会に住む人々の服装は西洋的であった。石油で潤っていたパーレビ国王時代のイランも経済的に豊かで、若い女性はミニスカートをまとい西洋的な装いであった。しかし、宗教指導者ホメイニ氏のフランスからの帰国後、イスラム原理主義の台頭が起こり大きく変化する。
 そして歴史や文化が常に進歩するとは限らないことを再認識させられることになる。

 宗教が国や民族の文化や精神的な基軸となっている処は多い。しかしそれぞれの宗教には他の民族、宗教に対する排他性が存在する。
 インドに於けるヒンズー教はインド社会の根幹を成す。しかしこの宗教は階級制度で成り立っている。国民の平等化を図ることは、この階級制度を否定することになる。それは現在のインド社会を否定することになり、平等化は容易ではない。
 ユダヤ人であることはユダヤ教を信じることであり、キリスト教も「クリスチャン」の持つ「人間的」と言う意味を考えると深刻だ。日本に於ける神道も他国には布教も不可能な閉鎖的な宗教だ。

 冷戦終了後の地球上における解決しなければならない課題は貧富の格差による南北問題であった。富める国と貧しい国の格差問題である。しかしこの問題が解決できない内に新たな争いが起きる。イスラム教、ユダヤ教、キリスト教が係わる宗教戦争である。資本主義と社会主義のイデオロギー的争いから、文化や価値観の違いが争いの元になって来ている。
 アメリカ合衆国のように、大儀や正当性もなく自己の利益のためだけに、戦争を仕掛ける国があり、日本のようにそれに追随する主体性のない国も存在する。世界は益々混沌を深めつつあることだ。

旧市街入口、Fes
旧市街城壁、Fes
 
母と娘、Istanbul
モスク内の米国人女性、Shiraz
 
Lahore市街

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