貧乏旅行の話

24.戦跡を訪ねる

戦跡を訪ねる

カンチャナブリ

タンビュザヤ

コタバル

サンダカン

ラブアン

クンユアム

プラチュアップキリカン

戦跡を訪ねる

 外国を旅行中に町中で知りあった人と会話を持つことが多々ある。相手によっては私が日本人と分かると微妙に反応が変わる人もいる。
 それぞれの国には長い歴史の中で、それぞれの国に対して持つ感情、イメージが存在する。その感情や、イメージが本質を表しているのか、誰かにより意図的に作られた物なのか、それともその人の持つ資質なのか、私には分からない。しかし一般的には未知の国やその国民に対するイメージは、限られた情報の中から安易に作り上げられる。

 ドイツの地方都市などを旅していると、胡散臭そうにアジア人である私を見ていた老人が、二言三言の会話を通して日本人と分かると、親しげに握手を求めて来たりする。そこには第二次世界大戦を共に戦った国という意識があるようだ。さらに日本に行ったことがあるという話に進み、最後には「女が良かった」と若かりし思い出に落ち付いたりする。

 同じ西洋人でもキナバル山のホステルで同室したオーストラリア人は、私が日本人と分かると不快な顔をした。そして「もう昔のことだけど」と話した。ボルネオ島では日本軍に対し、イギリス軍と共に参戦したオーストラリア軍が各所で戦いを交えている。さらにサンダカンではシンガポールで捕虜となった、オーストラリア人やイギリス人が飛行場建設に従事させられている。ここから生還したのは脱走した6人だけといわれる。

 中国南部深セン市蛇口のバーで会った中国人は相手が日本人と分かると、被害者意識丸出しで先の戦争の話をした。この町には三洋電機やエプソンなどの日本企業が進出している。私が仕事で訪ねた1995年は香港新空港建設中で、多くの日本人技術者が滞在していた。そこで会った日本人は皆中国人から「戦争責任の洗礼」を受けていた。「そんなことは昔のことだ、俺には関係ない」と突っぱねる人や、「これからは仲良くして未来を切り開こう」など人により対応は様々だ。戦争責任問題は賠償金を支払ったから全てが終わるわけではない。(中国は賠償金の請求を辞退している。)

 私は中国東北部遼寧省大連市で会った中国人の男とも同じような経験をしている。中国全域にこのような意識は行き渡っているようだ。さらに今年の7月重慶市で行われたアジアカップ2004サッカー試合での、日本人選手に対する反日感情丸出しのブーイングは、未だその意識に変化がないことを表している。
 さすがに仕事などで会った人々は「戦争責任」の話はしない。当然相手に失礼になると理解しているのであろう。

 この問題は結局日本人が先の戦争をどう考えているかによる。「過去には不幸なことがあったが、これからは仲良くしましょう」という態度を示せば相手も納得する。
 日本の最高責任者になっても靖国神社参拝問題で、外国の首脳陣と会談もできない状況は異常である。首相という職務と、個人の考えとは切り替えられる判断力と資質を持たない人間が、国の責任者になっているのは国民の不幸である。またそのような首領を選ぶ国民の責任も問われなければならない。

 日本のように近代史を学校で意図的に学まず、親も自分の子供に教えていない。アメリカやイギリスと戦争したことを知らない世代が出現している。このことは広島や長崎に落とされた原爆が、誰によりどのような経過でなされたか、理解していないことを意味する。
 先の戦争でアメリカ軍は国際法で禁止されている、非戦闘員を殺害すべく日本の各都市に無差別爆撃を行っている。また日本軍が東南アジアに侵略し、勃発した事件や、問題を知らないことである。その反面、戦争の被害者として、近代史を学んでいる中国や韓国の若者もいる。
 この現実は日本の有様を顕著に表している。過去の戦争を正当化するか、反省するか以前の問題であろう。過去に起こった物事から学び、未来を考える思考回路が欠落、または遮断されている。さらに日本における戦後処理の一番の問題は、日本人の手により戦争犯罪者を処罰していないことだ。

 東南アジアを旅することは60年前の太平洋戦争の痕跡を訪ねることになる。そこには突然進駐してきた日本軍に対する、険悪感を持ち続けている人々も住んでいる。かつては反日感情が強く、日本人づらをして歩けない土地もあったといわれる。
 太平洋戦争における日本軍の問題は、住民虐殺や戦争捕虜に対する取り扱いが問題とされている。しかし当時の日本は軍国主義であり、上下関係が厳しく、体罰が日常的に行われていた。さらに兵隊は赤紙一枚で召集でき、ただの消耗品であった。先の戦争における死亡者の半数は戦いではなく、栄養失調や疾病で死んだといわれる。食糧補給も満足にできない状況に兵隊を配備していた。そのような境遇の軍人が、捕虜に対する配慮ができたのか疑問である。

 現在でもアメリカ合衆国のように自国の利益のためだけに戦争を起こし、自国民捕虜に対する取り扱いには抗議し、対戦国の捕虜は虐待する。過去にもベトナム戦争時のソンミ村民虐殺なども発生している。現在のイラクでも非戦闘員が不条理に殺害されている。これは明らかに国際法及びジュネーブ条約に違反している。アメリカの民主主義などその程度の物なのだ。国際機関もアメリカの顔色を伺ってか対応できていない。今もアフガニスタン人捕虜が、キューバにあるアメリカ軍グアンタナモ基地に、不当に意味なく拘束されている。

 勇敢で責任感の強い青年は先の戦争で死に、ずる賢く小心者が生き残り、戦後の日本社会で地位を得たとの指摘もある。戦争中は「鬼畜米英」と軽蔑し、毛嫌いしていた相手に、敗戦後目ざとく擦り寄り、金儲けに走る人々がいる。
 戦争は昔も今もビジネスなのだ。戦争により利益を得ようとする輩が存在する。当然少数では実行出来ないので国や国民を巻き込む。目的があれば理由はどうにでも付けられる。「国益を守るため」「独裁者を倒すため」「植民地を解放するため」「民主主義を守るため」「資源確保」「食糧確保」一番新しい標語(プロパガンダ)は「テロリストを倒すため」だ。そして一般大衆の愛国心を煽る。都合の良い情報のみを流し人々を誘導する。世の中には「金儲けのためには何でもする」このような思考をする人もいるのだ。

 何処の国でも戦争で死亡した兵士を丁重に扱う。国を守る戦いで死亡したからだ。アメリカではワシントンに在るアーリントン墓地に埋葬する。日本では九段の靖国神社に霊魂を奉る。
 東南アジア各地には日本人によって作られた、戦没者慰霊碑などが23ヶ国、600基余り存在する。敗戦後60年が経過し、関係者の高齢化と共に管理されず、朽ちていく物も多いといわれる。今回の旅行でそれらの戦跡を訪ねる機会があった。

国立歴史博物館、Kuala Lumpur
国立歴史博物館、Kuala Lumpur
 
国立歴史博物館、Kuala Lumpur
Stadthuys, Melaka
 
戦争時の写真、バンコク動物園
防空壕内部、バンコク動物園
 
オーストラリア軍慰霊碑、Tarakan
日本軍が接収した建物
現在は国立博物館、Satun

カンチャナブリ

 タイ王国、首都バンコクの西部、120km余りにカンチャナブリは位置する。この町はクルンテープ朝の初期に、ビルマからの侵略を防ぐ目的で、ラマ一世により作られたという。
 アビニオン生まれのフランス人技師"Pierre Boulle"の小説「戦場に架ける橋(The Bridge Over the River Kwai)」のアメリカ映画(The Bridge on the River Kwai)や、その主題歌「クワイ河マーチ」にて有名な所だ。この小説は1954年出版され、映画は1957年アカデミー賞(オスカー)を受ける。

 現在この町は一大観光地となっている。クワイ河(クウェー・ヤイ河とも言う、Khwae Yai River)は町の西部を北から南に流れている。町の北部にはクワイ河をまたぐ泰緬鉄道(タイ―ビルマ鉄道)の黒く塗られた鉄橋が今も残る。町の中心近くには鉄道建設中に死亡した連合軍捕虜の墓地がある。さらに戦争捕虜たちの過酷な生活を描いた絵や写真が保存された博物館が3ヶ所ある。当時使われた蒸気機関車などもクワイ河駅近くに保存されている。
 クワイ河に架かるこの橋は建設当初木造であったが、後に鉄橋として作り替えられる。現在でも他の場所では木造の橋脚も残る。この鉄道は建設中にも連合軍による爆撃を受けている。

 泰緬鉄道は戦後長期間放置されていたが、鉄橋などが修復され、現在はバンコク"Thonburi - Namtok"間で利用されている。ビルマ―タイ国境(Three Pagodas Pass)には記念として線路が残されている。コンユウ切通し(地獄の火峠、Hellfire Pass)にはオーストラリア政府(Office of Australian War Graves)の資金と、タイ政府の協力により博物館、鉄道跡に散策路が作られている。ここにはオーストラリア政府作成の日本語パンフレットなども置かれている。
 このパンフレットによると「ヘルファイアー・パス・メモリアルは第二次世界大戦中にヘルファイアー・パスその他のアジア太平洋各地で苦しみ、あるいは亡くなったオーストラリア軍その他連合軍の戦争捕虜(POW)やアジア人労働者のために捧げられています。」とある。

 泰緬鉄道はビルマ戦線への補給路として日本軍により計画される。バンコク西部の"Nong Pladuk"よりビルマの"Than Byuzayat"間415kmを結ぶ。1942年10月にタイ、ビルマ側より着工、コンコイタにて連結され開通する。コンユウ切通しでは12から18時間シフトで作業が行われ、12ヶ月という短期間で完成される。雨季の劣悪な環境下、過酷な労働と食糧不足、マラリア、赤痢、コレラなどで多くの犠牲者を出す。
 それ故に泰緬鉄道は「死の鉄道(Death Railway)」とタイ人や西洋人に呼ばれている。マレー半島及びシンガポールで捕虜になった英国人、オランダ人、オーストラリア人などが鉄道建設に従事させられる。

 各地に設置されている泰緬鉄道レリーフによると、鉄道建設作業者および死者は下記の通りである。

 国別作業者       人員     死者
アジア人労働者    20万人前後  8万人前後
イギリス人捕虜     3万人    6540人
オランダ人捕虜     1万8千人  2830人
オーストラリア人捕虜  1万3千人  2710人
アメリカ人捕虜    700人前後   356人
日本人、韓国人     1万5千人  1000人

連合軍墓地、Kanchanaburi
現在の終着駅、Nam Tok
 
泰緬鉄道レリーフ、Hellfire Pass
コンユウ切通し、Hellfire Pass
 
博物館内部、Hellfire Pass
C56蒸気機関車、Kanchanaburi
 
クワイ河と鉄道橋、Kanchanaburi
クワイ河と鉄道橋、Kanchanaburi
 
タイ、ビルマ国境、Three Pagodas Pass
慰霊碑、Kanchanaburi

タンビュザヤ

 ビルマ(ミャンマー連邦)の南部、モン州の州都モウラミャインから約60km南方にタンビュザヤは位置する。この町は泰緬鉄道のビルマ側起点として知られている。ビルマ側の泰緬鉄道は"Than byuzayat-Three Pagodas Pass"間を結ぶ。

 タンビュザヤには泰緬鉄道起点碑、蒸気機関車と資料館、日本軍が建設した慰霊のパゴダ、鉄道駅の近くには連合軍捕虜の墓地がある。
 しかしこの町に訪れる観光客は少なく、タイのカンチャナブリとは対照的である。連合軍墓地の入口扉は閉じられたままで、内部には入れない。資料館の内部には入場できず、展示物は壁からはがれ落ち、長期間管理されずに放置されている。"Than byuzayat-Daway"を結ぶ鉄道脇にある日本パゴダにも参拝する人影はなくひっそりとしていた。

 私はモウラミャインから朝7時のバスに乗りタンビュザヤに向かった。町には2時間余りで到着したが、各施設の位置が分からないため警察署を訪問することにした。ビルマの警察署には何処も"May I help you?"の看板が掲げてある。警察署に入り署長と面会、各施設の場所を確認する。しかし英語は十分に通じず、的確な案内は受けられなかった。さらに不審者としてかパスポートの提示を求められた。

 資料館とパゴダは町の東部、墓地は南部に位置する。各施設はサイカーにて十分に見て回れる距離にある。パゴダへの途中にはゲートがあり軍人が検問していた。何処へ行くかの聴取があり、私は通行が許可されるが、帰途の途中に軍人がオートバイに乗り様子を伺いに来た。

泰緬鉄道起点碑
蒸気機関車
 
資料館内部
資料館の敷地にある像
 
パゴダ
町の中心
 
連合軍墓地
連合軍墓地

コタバル

 マレーシア連邦、マレー半島北東部、南シナ海に面し、タイ王国国境近くにコタバルは位置する。イスラム色の強い、文化の中心的な町といわれる。
 太平洋戦争時、日本軍はタイ王国と協定を結び自由通行権を得る。さらに英国の植民地であったマレー半島侵攻作戦を実行する。日本軍は1941年12月8日コタバルに上陸、マレー半島を東部、西部、中央の三方向から南進し、1942年2月14日シンガポールに立て籠もったイギリス軍を陥落させる。ここで13万人が捕虜となる。

 コタバルは日本軍の上陸地点であった。現在のコタバルには戦跡らしき物は残っていない。しかしこの町には第二次世界大戦の写真や資料を展示した戦争記念博物館がある。驚いたことに、ナチス党党首アドルフ・ヒトラーの写真と共に昭和天皇の写真が並べて掲示されていた。
 さらに驚いたのは日本映画社作成のマレー半島日本軍進軍記録映画を持っていたことである。博物館係員は訪問者が日本人と分かると、この映画を見せてくれる。

 マレーシア連邦の民族構成はマレー系、華僑、インド系に分かれている。日本軍への反応もマレー半島とボルネオ島では違うように、マレー系と華僑では違いがあるようだ。マレーシアは日本軍の敗退後、再植民地化を目指したイギリスと戦い、さらに内戦へと発展する。マレー半島、サバ、サラワク州を含むマレーシア連邦の成立は1963年9月となる。

戦争記念博物館、Bank Kerapu
戦争博物館内部、Bank Kerapu
 
復元されたトーチカ、Bank Kerapu
オーストラリア空軍慰霊碑、Bank Kerapu

サンダカン

 ボルネオ島北部、マレーシア連邦サバ州に属する港町、華僑が人口の30パーセントを占める。戦前までは北ボルネオの首都、貿易、経済の中心地であった。ボルネオ島には戦前よりゴム栽培の日本人などが移住していた。

 太平洋戦争時日本軍は飛行場を作るため、シンガポール陥落で捕虜とした2700人余りのオーストラリア人、イギリス人をここに収容していた。1944年末、連合軍の攻撃により仮設滑走路は破壊される。
 1945年1月、連合軍の攻撃開始により、戦局の悪化と共に捕虜を260km離れたラナウへ移動する。これが悪評をかった「ラナウ死の行進(Ranau Death March)」である。1945年1月、サンダカンを出発した捕虜の数は1342名、1945年5月に出発した捕虜の数は234名といわれる。
 しかし連合軍の攻撃を避けるため、ジャングル内のコースを取る。このため食糧不足、脚気、マラリア、赤痢などで約500名の犠牲者を出す。さらに8月15日の日本軍降伏まで生き延びた捕虜は脱走した6名といわれる。

 サンダカン郊外にはオーストラリア政府(Office of Australian War Graves)により捕虜収容所跡が、記念公園として整備されている。公園内には展示室、当時のボイラー、滑走路建設に利用された建設機械などが残されている。

 アメリカ人女流作家、アグネス・キースの日本軍支配下の抑留生活を描いた小説"Three Come Home"にこの「ラナウ死の行進」が誇張的に記述され、日本軍の残虐性が西洋人社会に印象づけられたという。因みにアグネス・キースの住んでいた家はサンダカンの丘に残っている。

 この公園で作業をしていたマレーシア人の男性と言葉を交わす機会があった。「何処から来たか」と聞かれ、私は素直に「日本人だ」と答えた。相手は「よく来てくれた」と話した。私は「歴史を知ることは重要なことだ」と言葉を続けた。

サンダカン記念公園
展示室内部、サンダカン記念公園
 
サンダカン記念公園
日本統治下の写真、サンダカン歴史博物館

ラブアン

 ボルネオ島の北西部、ブルネイの北部に位置する小さな島がラブアン島である。1941年12月23日、日本軍はラブアンに進駐する。1942年5月、司令官前田中将が着任、前田島と改名される。日本軍はここに仮設滑走路を建設、ここより北部ボルネオを統治する。

 1943年10月10日、日本軍統治に反対する華僑青年を中心とするキナバルゲリラにより、48人の日本人軍人及び住民が殺害される。これはアピ(現在のコタキナバル)事件と呼ばれる。それに対する報復として首謀者を含む300人余りが逮捕される。1944年1月20日、176人がペタガスにて処刑される。残りの130人余りはラブアンに送られる。しかし生き残ったのは7名とされる。現在ペタガスには戦没者慰霊碑と墓地が作られてある。
 アピ事件と同様な事件が西カリマンタン、ポンティアナクでも発生している。

 1945年6月10日、100隻の船団で構成されたオーストラリア軍第9師団による上陸作戦、総攻撃が始まる。この戦闘で市街地のほとんどの建物が破壊され、日本軍500名が玉砕する。

 1945年9月9日、日本軍南方第37軍団馬場司令官とオーストラリア軍第9師団により降伏式典が行われる。降伏後捕虜となった日本人はオーストラリア軍の管理下に置かれる。1945年12月、オーストラリア戦争裁判がこの地で行われた。現在は島の北部に平和公園と日本軍の降伏地として記念碑が設置されている。
 町の北部には第二次世界大戦にて犠牲となった戦没者墓地がある。ここにはボルネオ島にて戦死した、主にオーストラリア、イギリス軍人3905名が埋葬されている。 *注記:各日付や人数にはその性格上、資料によりかなりの違いがあります。

The Financial Park Complex
Clock Tower

ペタガスに関する記事 2004年1月12日 DAILY EXPRESS

クンユアム

 1941年12月8日、第二次世界大戦は、日本軍の米国ハワイ島真珠湾攻撃から始まる。ほぼ同時に英国の植民地であったインドシナ半島にも進駐する。タイ湾に面した各地に上陸した日本軍はイギリス領マレーシアを南下、シンガポールを目指す。タイ北部を目指した日本軍はビルマ国境近くに駐留する。ここに駐留した日本軍はチェンマイより北西部のパイ、メーホンソンを通り、クンユアムより西に向かいファイトンヌン国境より、ビルマのトーンウーに通じる山岳道路建設を開始する。
 1942年3月ビルマ侵攻、1942年5月ビルマ全土を占領する。1942年10月補給路として泰面鉄道が着工される。
 
 1944年3月、イギリスを屈服させる目的で、日本軍はインド国民軍と共にインドに侵攻する。第15軍の総兵力は約15万5千人であった。ビルマ西部からインドのコヒマ、インパールを目指す。悪評高いインパール作戦である。しかし、1944年7月装備、補給が不十分な日本軍はインパール作戦に大敗する。前線からの撤退で、生還者は3万1千人とされる。
 1945年3月、ビルマ国軍の離脱、さらなるビルマ戦況の悪化により、ビルマ戦線より敗退した数十万人の日本軍は、タイに戻ることになる。そのときの惨状から白骨街道とも呼ばれる。当時クンユアムには飛行場、兵舎、病院などがあり、兵士の休息地となった。

 2010年5月中旬、バンコクを乗り合いバスで出発した私は、メーソットよりソンテウ(乗り合いトラック)に乗り、ビルマ国境地帯を北上する。メーソット周辺にはビルマ人の難民キャンプが多く存在する。さらにメーサリアンを経て、北上しクンユアムにたどり着く。私は町北部のゲストハウスに荷物を置いた後、日章旗が揚げられた日泰友好記念館を訪ねた。
 クンユアムはタイ王国北西部、古都チェンマイの西部に位置する。ビルマ国境近くの観光客も少ない、緑豊かな静かな町である。現在はここに第二次世界大戦博物館がある。このタイ辺境の小さな博物館には日本軍が残した装備、写真などが展示されている。これらはクンユアム郡の警察署長が1990年代後半に収集した物である。

 私が博物館に入るとタイ人の若い娘が迎えてくれた。説明ビデオを鑑賞した後、展示室に入る。真新しい軍服姿のマネキンが迎えてくれる。現在この博物館は日泰平和財団により管理されている。

 チェンマイよりクンユアムにバスで入る方法は、北方ルートと南方ルートがある。北方ルートは距離約312km、パイ、メーホンソンを経由する。南方ルートは約302km、メーサリアンを経由する。クンユアムは県都メーホンソンの南67kmに位置する。
 タイ北部山岳部は多くの少数民族の村がある。クンユアム周辺にはシャン、タイヤイ、モン、メオなどの村が点在している。
(2011年5月22日、追加)

第二次世界大戦博物館
慰霊碑
 
日本軍車両
博物館内部
 
展示写真
展示物

 プラチュアップキリカン

 1941年12月8日、日本軍はイギリス領マレーシア、及びビルマに進軍するため、タイ王国マレー半島のタイ湾に面した7ヶ所の地(Samut Prakan, Prachuap Khirikhan, Chumphon, Surat Thani, Nakhon Si Thammarat, Songkhla, Pattani)に上陸した。各上陸地の北部に位置する、プラチュアップキリカンではマナオ湾(Ao Manao)の空軍基地Wing 5に上陸した日本軍と戦闘が起きる。当時基地には100人余りの兵士がおり戦闘態勢を取る。しかし、他の部隊が町中心部に進駐したため、12月9日10時に戦闘は終結し、日本軍のタイ国通過が承諾される。

 毎年12月8日には空軍基地内において、当時の英雄をたたえる式典が行われている。基地東部には当時の様子を表した、浮き彫りの条約締結記念碑、英雄記念碑が設置されている。敷地内には4機のプロペラ機が展示されている。桟橋近くには当時の顛末がタイ語と英語で書かれ掲示されている。

 プラチュアップキリカンよりさらに南に位置する、ナコンシータマラートにおいても、12月8日の日本軍上陸時に6時間余りの戦闘があり、39人のタイ兵士が死亡したとされる。銃剣を持ったタイ兵士の記念碑が建てられている。(Wirathai Monument)
 ナコンシータマラートはアユタヤ時代(西暦1351年〜1767年)の1629年に山田長政が没した地である。ここの県立博物館には当地の歴史として、アユタヤ時代における世界各地の人々との交易や、第二次世界大戦の様子も解説展示もされている。

 プラチュアップキリカンは人口3万人弱の小都市である。円弧状の3つの湾が連なる風光明媚な土地である。しかしリゾート地ではないため、雨期では観光客は少なく静かな所である。湾中央には漁船用の桟橋があり、湾内には多くの小型漁船が係留されている。町北部には標高245メートルの小さな山(Khao Chong Krajok)があり、396段の階段を上ると、頂上の寺院に達する。ここからは三つの湾が一望できる。
 プラチュアップキリカンへはバンコク中央駅より特急列車にて、4時間余りである。(この列車には数回乗車したが、実際は5時間余りかかる。)運賃は425バーツ、弁当、飲み物付き。南バスターミナルより直行バスも走っている。約4時間。(各料金は2011年2月現在)
(2011年10月25日、追加)

プラチュアップ湾
空軍基地入口ゲート
 
ゲート前のモニュメント
タンクに描かれた絵
 
英雄記念碑
条約締結記念碑
表面 日本軍との対戦模様
裏面 停戦条約締結模様
 
桟橋前の歴史説明掲示
日本軍の進軍経路

ご意見、お問い合せはこちらへ 

元のページへ戻る