貧乏旅行の話

9.坊さんがガールハント

安宿に泊まる

ビルマ人の親切

坊さんがガールハント

タイ北部国境の町チェンコン

安宿に泊まる

 旅に出て、目的地に着き、先ず誰でもすることは泊まるところを捜すことだ。何処に泊まるか、これはなかなか難しい。旅行資金が豊富に有れば、その町の一番良いホテルに行けばいい。貧乏旅行者には、この選択は端から無い。また最低料金の安宿を目指すなら、選択の余地もまた少ない。しかし安くて、清潔で、設備が整った所となるとこれは難しい。ここで頼りにするのが旅行案内書となる。しかしこれも著者の主観により書かれた物で、私自身の持つ感性と大きく違う場合もある。要は自分でホテルを訪ね、部屋を見て、部屋代を確認することが必要となる。そして貧乏旅行者には値段交渉もまた重要な事だ。

 物価の高いヨーロッパ諸国を旅する場合、最低料金で泊まれる所は、やはりユースホステル(国によっては年齢制限があり、中年のおじさんが泊まる所ではない)となる。町の中心にある物から、路面電車に乗る郊外の物まで、その国々や地域によりいろいろだ。建物は昔の城や別邸から学校やだだの住宅まである。大きなホステルの部屋は、ほとんどが10人や20人の大部屋である。部屋には二段ベットが並び、鍵の掛かるロッカーが有り、温水シャワーが利用でき、冬には暖房のスチーム、そして朝食と夕食が食べられれば最高の部類に属する。しかし食事提供の設備がない所も多い。この場合には外に食べに行くか、近くの食料品店やスーパーでパン、ハム、チーズ、牛乳、豆の缶詰、サラダ等を買ってくることになる。レストランでの夕食は何処もそれなりの料金を取る。そうなるとレストランで昼の定食(スープ、肉または魚料理、デザート)が最高の贅沢となる。イタリアやスペインでは定食にワインが付き、フランスではチーズが付いたりする。

 物価の安いアジアや中近東では安宿の選択幅も大きくなる。最底辺は1ドル余りでドミトリー(相部屋)や個室となる。暑いアジア諸国ではどんな安い部屋にも扇風機は付いている。これに洗面所、トイレ、水シャワーが付属すると3−4ドル余りとなる。さらにテレビ、冷蔵庫、温水シャワー、冷房装置が付くと7−10ドルと跳ね上がる。テレビも最近は衛星放送が視聴できる所も多くなってきた。バンコックのホテルでは英語(BBC)、日本語(NHK)、フランス語、ドイツ語、中国語の放送が視聴できた。

 食事は現地の人々が行く屋台や一膳飯屋で食べれば安く済ませられる。大きな一膳飯屋では20品余りの調理された大鍋が並べられている。言葉が解らなくともこれらを指差し、注文すれば御菜が掛けられたご飯が食べられる。タイでは御菜一品で20バーツ位からだ。一泊50バーツの宿に泊まり、三食を100バーツで食べれば、一日500円で生活することもタイの田舎では可能だ。

 タイの東北部イサーンにある町"NAKHON RATCHASIMA(KHORAT)"で泊まった中級ホテルでは昼食に79バーツで洋食、日本食、タイ料理のバイキングを実施していた。普段は旅行先では決して食べない日本食もここでは理屈抜きで食べた。刺身や巻きずしもあり低料金と共に感激した。テーブルには本格的なレストランとして、白いテーブルクロスとナプキンも置かれている。
 このホテルにはナイトクラブもあり、ミニスカートにブーツやロングドレス等の派手やかな衣装をまとった、20人余りの若い女性歌手がいる。彼女らはステージにてカラオケで歌い、客の席にきて酌もする。ビールも大瓶で49バーツと安いのだが、英語が通じず残念ながら為す術がなかった。

 小規模な安宿に泊まるか、規模の大きなホテルの安い部屋に泊まるか、これも重要な選択となる。設備が整った部屋は安宿でもそれなりの料金が取られる。こう考えると綺麗で、フロントも広く、レストランもあり、プールも付いた大規模ホテルの安い部屋が格段に有利となりそうだ。しかしこの選択が出来るのは中級クラスのホテルを検討した場合である。

 タイと周辺諸国におけるホテルの設備や金額を比べると、同等かそれよりも高い金額となった。平均個人所得がタイの4分の1に満たない、これらの国々の料金が高いのは不自然である。何処の国でも物の値段は住民の所得と需要と供給により決まる。これは外国人旅行者に対する特別な料金設定であることが解る。食事代も同様でほとんどの観光地は高く設定されていた。アンコールワットのある"SIEM REAP"などはレストランでの食事は料理一品2ドル以上はしていた。
 ビルマでは安宿でもコンチネンタル形式の朝食が付き、タイの地方都市では450−500バーツ位の中級ホテルからコンチネンタル形式やタイ式の朝食が付いてくる。

 安宿には安全面や設備面で問題も多い。ドミトリーに泊まる場合は自分に割り当てられたベットだけが自由に使える空間となる。お金、パスポート、カメラ等の貴重品の管理も十分な注意が必要だ。夜中に寝ていても脳が緊張しているのは明らかで疲れがたまりやすい。
 ビルマ等の安宿では煮染めたようなバスタオルが付いていたりする。シーツは洗濯され、アイロンがかけられ、折り目があればよい方である。掛け毛布用のシーツがなかったり、1枚のシーツを半分に切って上部だけに使うようにした宿もあった。これには苦笑と共に唸らずを得なかった。安宿ではトイレットペーパーが無く(水で洗う習慣がある)、シャワーが付いていてもバスタオルが付かない宿も多い。自分のタオルは必需品だ。
 しかし安宿はバックパッカーの溜まり場であり、情報交換の場としても重要である。中級ホテルでは得られないバックパッカーならではの最新情報を得ることが可能だ。
 

ビルマ人の親切

 ビルマの滞在も余すところ2日となった2月の上旬、私は首都ヤンゴンの中心地にある、中級クラスの国営ホテル"QUEEN'S PARK HOTEL"に泊まっていた。その日は、空港近くに位置する"HWY BUS CENTRE"へ行く為タクシーに乗る。ホテル前で捕まえたタクシーは、この国では珍しい左ハンドル車であった。その車は25年以上は経つ、クラシックカーに近いオレンジ色のカローラである。バスタ−ミナルまで600チャット(約$1)と値段交渉も済ませ、助手席に乗り込み、景色を見ながら何時ものように世間話をしていた。

 自分は日本からビルマーへ観光旅行に来て、既に観光地は周り最後に"BAGO"を訪ねると話した。運転手は自分には80才過ぎの母親と小学校の教員をしている妻がいて女の子が二人いる事。妹がいてパートタイムで病院に勤めていること。自分は英国製のクラシックカーを持っていて現在修理中であること等を話した。
 このクラシックカーを見たくないかと男は言いだし、近くだから寄っていくと自分の家へ向かった。男は幾つかの住宅街にある細い路地を曲がり、路地脇に置いてある古い車の側で停車した。男は誇らしげに自分の車を指差した。車は緑色とクリーム色のツートンカラーに塗り分けられていた。これから少しづつ手を加えていくと嬉しそうに男は話した。

 廻り道はしたものの長距離バスターミナルに到着し、男はピックアップトラックが出発する場所近くで車を止めた。私も車を降りピックアップトラックが"BAGO"に行くことを確認した。そして約束のタクシー料金を男に渡そうとすると、男はタクシー代を私にプレゼントすると言って受け取らなかった。私はいささか驚きどうしたものかとしばし考えざるを得なかった。そこで、私は名前とホテルの部屋番号を書いたホテルカードを男に渡した。男は自分の名前と住所を書いてくれて、再会することを約束しその場は別れた。男の名前は"KYAW WIN"と言い、妹の名前は"THIRI THAN AYE"と言った。彼は背の高い痩せ形で気の良さそうな男であった。

 "KYAW WIN"の妹からホテルの私の部屋に電話が掛かってきたのはその日の夕方であった。一通りの挨拶をした後、彼女は私を食事に招待したいと話した。翌日の夕刻会うことを約束し電話を切る。
 翌日の夕刻"KYAW WIN"は自分のタクシーにてホテルまで迎えに来てくれた。私は昨日のお礼を言い遠慮がちに路上に停められた彼の車に向かった。車には三十代中頃と思われる小柄な女性が既に乗っていた。私は彼の妹に挨拶をして助手席に乗り込んだ。妹から何処か訪問したい所はないかと聞かれ躊躇していると、"KANDAWGYI LAKE"にて夕焼けを見る事に決まった。しかし、湖周辺は政府関係者が来るとのことで、中に入れず近くの妹の知っているホテルによる。その目的は私にホテルを紹介したかったようだ。

 その後彼の家近くの食堂に行き、春雨のような細い蕎麦をご馳走になりながら話をする。"THIRI THAN AYE"は英国に1年ほど留学をした経験があり英語も堪能であった。かつて私が英国企業の日本法人で働いていた事を話すと、アジア人と西洋人の習慣や感性の違いに話が進み話題はつきなかった。しかし私と話をしたかった目的は、少しでもお金になる機会をつかもうとしている姿勢であった。次回ビルマ訪問の時には協力したいなどと話し、少しの可能性でもビジネスに活かそうとしていることが良く理解できた。

 ビルマは60年余り英国の植民地であった為、英語が堪能な人が多くいる。しかし何故か日本語を話す人に会う機会も多かった。日本に留学し卒業後日本で働いた経験のある人もいた。しかし現在はビルマに戻り、ホテルの支配人をしていたり、店員をしていた。日本に留学する事が決まり、卒業後日本で働きたいと希望を話す旅行中の青年もいた。
 日本語のガイドをしている大学生の女性は、独力で日本語を習ったと話していた。彼女は"SHWEDAGON PAYA"の外国人料金所近くで観光客を待っていた。私の国籍を名簿で確認し、後を追いかけてきた。約一時間余りかかる寺院内を5米国ドルで案内すると言った。普段は決して雇わないガイドをその時は雇う気にさせられた。彼女とは昼の食事を共にし、市内の案内もして貰うことになった。
 軍事政権の閉鎖された社会で現金収入を得るために努力をしている人々の姿が垣間見えた旅行であった。

SHWEDAGON PAYA, YANGON
日本語ガイド, MS.NILAR
 
SHWEDAGON PAYA, YANGON
子供の坊さん, BOTATAUNG PAYA
 
マーケットにいた女の子, INLE LAKE
涅槃佛, BAGO

坊さんがガールハント

 仏教には大きく分けて二つの流派がある。インドよりセイロンを経てインドシナ諸国へ伝えられた南方仏教(小乗仏教)、インドから中央アジアを経てベトナム、中国、韓国、日本へ伝えられた北方仏教(大乗仏教)である。それに大乗仏教から派生したチベット、モンゴルにおけるラマ教がある。南方仏教は形式及び戒律的であり、座禅、瞑想を重んじ、北方仏教は利他行の実践に励み、菩薩行を重んじている。

 今回インドシナ諸国を訪問し、仏教の厳格さも国によって随分違うことを直接体験する事になった。仏に祈る手法も日本とは随分違うのである。ビルマやタイでは床に跪き額を床につけて、祈るのが正しい姿であるようだ。ビルまでは神聖なお寺の敷地や本堂に入る場合には、靴や靴下を取らなければならない。女性が入れない場所もある。仏に足を向けては行けない。仏像の前で休む場合には横座りをする。
 ビルマやタイでは仏教の戒律が厳しく、女性はお坊さんに触れてはならない。女性がお坊さんに物を渡す時には、直接手で渡しては行けない。お坊さんと話をするときには跪いてする。等々その国なりの習慣や決まりがあるようだ。 
 仏教の流派による違いと共に、現状を比べてみると、長い歴史の中で性格も随分違ってきている。タイにある中国寺では靴を脱がなくてもよい。インドシナの仏像は時代の流れと共に、後光なども電子化されている。お布施を回転する箱に投げ入れ、運を試す物まであった。これらに比べ日本の仏教と仏像は骨董品化しているかに見えた。

 ラオスの世界遺産都市"LUANG PRABANG"で宿泊していた、王宮近くの安宿"PHOUN SAB GUEST HOUSE"前には、朝の7時頃になると托鉢の坊さんが毎日通った。その時刻になると私は道路際のテーブルに座り、外を眺めながら注文した朝食を待っていた。時間になると宿の主人や女将が淡い水色の襷(たすき)を左肩から斜めに掛け準備していた。彼らはゴム草履を脱ぎ歩道に跪き、炊いた餅米の入った、竹で編まれたお櫃(ひつ)を左手に持っている。等間隔で次々に通り過ぎるお坊さんの持つ黒い漆塗りの丸い容器に右手で餅米を摘んで入れている。坊さんも手慣れた物で、容器の蓋を開け、歩きながらこれらを受け取る。これは無言で理路整然と手際よく行われている。

 ある朝、主人も女将も生憎居らず、宿の三十過ぎの生意気そうな男がその役目を果たしていた。男も襷を肩に掛け、ゴム草履を脱ぎ、お櫃を持ち、立ったままで托鉢に来たお坊さんの容器に餅米を入れていた。私は男の仕草を奇異に思い、托鉢が終わった後に「貴男の方法は正しくない」と冗談半分に文句を付けた。しかし男の返事は「跪くのは女で、男は立ったままで良い」であった。この違いは人それぞれのお坊さんを敬う気持ちの表れで、それが態度に現れているのであろうと私は理解した。

 カンボジアのアンコール遺跡のある"SIEM REAP"を訪ねたのは3月の初めであった。旅行中に人伝てに日本人特に大学生で混雑していることは聞いていた。
 その日は朝一番に浮き立つような気持ちでアンコールワットを訪ねた。アンコールワットは水を湛えた大きな濠と深い木々の緑に囲まれている。観光客は西側より寺院内に入る。この時点で前面に西塔門と回廊が大きく広がっており中央祠堂は見えない。象の門のある西塔門を潜ると中央祠堂と第三回廊が見える。廻りが草地の両側にナーガの欄干がある長い西参道を通り、第一回廊の西塔門に達する。十字回廊を通りさらに階段を上がると、第二回廊に達する。回廊を出て中庭に入ると、第三回廊が目の前に高くそびえている。このピラミット状の急な階段を上がると、第三回廊に達する。
 第三回廊には午前中の為か観光客も少なく静かであった。外の景色を眺め回廊にある女官を模したデバータを観賞していた。坊さんが回廊に腰掛け外を見ている。アンコールワットの敷地内には二つの仏教寺院がある。シバ神を奉るヒンズー教の寺院であったアンコールワットも現在は中央祠堂内に仏座像や涅槃仏が安置されている。

 その後、中央祠堂の急な階段を降り、第二回廊を見物した後、第一階廊の浮き彫りを見ながら歩いていると、日本人の若い女性と二十代前半に見えるお坊さんが英語で立ち話をしていた。日本人女性は小柄で髪が短く、丸顔の可愛らしい娘であった。二人が何を話しているのか興味を感じた私は立ち止まった。二人は回廊の中央に立っていた為、私は浮き彫りを見ながら二人の話を聞いていた。アンコールワットの歴史や、浮き彫りの意味、仏教の歴史等について話していた。私が近くに立っていたため坊さんが私に話を振ってきた。私はそれに答えつつ二人の会話に加わる事にした。
 
 一通りの話が終わると坊さんから寺院へ来ないかと誘われた。坊さんの所属する寺院は第一回廊の南側にある。木の柱に煉瓦積みされた修理中の小規模な本堂とその廻りに粗末な掘立小屋の宿坊がある。白く漆喰が塗られた本堂の外側上部には釈迦の由来が絵で書かれている。彼は私達二人に仏教についての知識を確認しながら絵の説明をしていった。インドカピラ城の王子として生まれた釈迦は、24才で出家し悟りを開くまでの10年余りの経緯が、十数枚の絵として描かれている。
 仏教の生い立ちの説明を受けた後、ジュースをご馳走してくれる事になる。私たちは宿坊の側にある木製の粗末なテーブルに移動した。テーブルの廻りには若い坊さん達が、それぞれに自由な時間を過ごしていた。若い女性の訪問で彼等は此方を注視していた。テーブルに生暖かい椰子の実ジュースが運ばれてきた。私達はそれを飲みながら竹に書かれた教典を見せて貰った。普段は教典を読み覚え、英語や日本語を勉強していると話していた。

 昼食時間と彼女が友達と約束した時間が迫ってきていたので、私達は坊さんに別れを告げた。西側の参道を通り入口に戻りながら坊さんと会った経緯を彼女に聞いた。第一回廊を歩いていると先のお坊さんから英語で話しかけられたと言い、最初は驚いたと話していた。私には坊さんが若い女性に声を掛けるとは信じがたい事であった。カンボジアではポルポト政権下に宗教弾圧もあり、タイ仏教等の戒律とは変化しているのかも知れない。

 インドネシアのバリ島におけるのビーチボーイとの関係のようにここ"SIEM REAP"でも日本人女性の評判は余り良くない。これは誤解を招く言い方かも知れない。言い方を換えれば、現地の若い男性にとても評判が良いのだ。若い日本人の女性と歩いているとすれ違いざまに「貴女美人ね」「お姉さん可愛いね」「愛してる」等と若い男どもから見境もなく日本語で声が掛かるのだ。日本人の女性はセックスを楽しみに旅に出ているとの噂もあり、現地の若い男達の注目の的になっている。
 この様な評判があって、坊さんも日本人の若い女性に声を掛けたのかも知れない。坊さんといえどもこの国の男性は侮れない。それよりも若い女性が一人で旅(海外旅行)をすることが、この国では尋常でないのことかも知れない。しかし噂通りで有れば一人旅の日本人女性が多いのも頷ける。

ANGKOR WAT
ANGKOR WAT
 
ANGKOR WAT
ANGKOR WAT
 
遺跡で遊んでいた子供達
西参道, ANGKOR WAT
 
仏教寺院、ANGKOR WAT
宿舎、ANGKOR WAT

タイ北部国境の町チェンコン

 タイの最北端の町は"MAE SAI"と呼ばれ、メコン川の支流サイ川を隔ててビルマの町"TACHILEK"に通じている。この近くはサイ川、メコン川を隔ててビルマ、タイ、ラオスの国境となっている。以前からこの近辺を「黄金の三角地帯」と呼び芥子の産地として有名であった。その為利権を求めて各国の政府軍、解放軍、シンジケートなどが暗躍する地帯であった。しかしタイ側の芥子畑が一掃され、ジャガイモやお茶の畑に変わった。現在のタイ側は道路沿いに土産物屋が並ぶ、一大観光地となり多くの観光客を集めている。

 ここから南東方向にメコン川を下るとラオスとの国境の町"CHIANG KHONG"がある。この町は観光資源も歴史的にも何もない小さな町である。しかし、現在はラオスへ舟で渡る若者達で賑わっている。私もここでラオスのビザを取る為足止めを喰い二泊する事になった。しかしこの町にラオスの領事館が有る訳ではない、ビザの申請書はパスポートと共にバンコクに送られ1200バーツ、二日間という短期間で取得できるのである。以前はラオスに渡り取得できたと安宿の親父は話していた。

 私の泊まったゲストハウスは舟の渡し場から川沿いに町の中心に向かって一本道を5分ほど歩いた所にあった。60歳過ぎの田中小美昌みたいな飄々とした親父と、37才で阿川佐和子よりはズート若いが何処か似ている女将と、17才になる無表情な男の子がいた。この二人は私の英語よりいかがわしい英語を話し、宿泊客とコミニュケーションを持っていた。
 この安宿には三人の日本人女性が泊まっていた。正確に言えば西洋人男性とカップルになった二人の女性と一人旅の女性であった。一人旅の女性は何時も帽子を被りボーイッシュでマイペースなところがあった。彼女はある朝「今日はどちらへ」と私が聞くと「一寸ラオスまで」とさらりと言いバスの時間を気にして宿を出ていった。対岸のラオスの"HUAY XAI"よりバスに乗り北部の山岳部落を訪ねる予定と話した。

 一組の日本人女性は一日だけこの宿に泊まり何時しかいなくなっていた。ヨーロッパ人の男性によると二人はアンコールワットで知り合い行動を共にしていると話した。この若い日本人女性は大学生らしかった。
 最後の一組は宿の女将によるとこの安宿に半年も泊まっていると言った。私が驚いて「毎日何をしているの」と訪ねると「何もしていない」と返事した。私が「不正滞在にならないの」と聞くと「ビザを更新している」と答えた。私が「長く泊まってくれて儲かって良いだろう」と話すと「50バーツの安い部屋なので儲からない」と女将は不服そうに言った。

 この宿には道路沿いに木造の二階建てがあり階下の一部と二階は個室になっていた。その建物の奥に平屋建てで白く塗られた六室ほどの建物があった。その部屋には洗面所、トイレ、温水シャワー、扇風機が付いていた。一泊150バーツでここの一室に私は泊まっていた。この二人は入口近くの一階のトイレも付かない薄暗いダブルベットの部屋に宿泊していた。
 その薄暗く湿ったような部屋が二人の愛の住みかであった。男はスキンヘッドで、男も女も何故か二の腕に龍の刺青をしていた。男は時々金魚が水面に顔を出すように部屋から出てきて外の空気を吸っていた。私は男と顔を合わすと軽い会話を持ったが深入りは何故か避けた。女はほとんど部屋から出ては来なかった。

 夕方になると親父は道路にプラスチック製の椅子を持ち出し、それに掛けて外を眺めていた。私も親父の側に椅子を持ち出し腰掛けた。バンコクと比べこの地はまだ涼しく、私も外を通る人々を眺めていた。しかしタイの辺境の地で人通りも少なく何時しか四方山話となった。
 てきぱきと働く若々しい女将としょぼくれた親父が結婚したのは18年前になる。女将が19才の時である。「若い女性を嫁に貰い嬉しいだろう」と私が話すと親父は「俺は年を取った」と情けないことを言い私の年齢を聞いてきた。私が「幾つに見える」と聞くと「解らない」と親父はぶっきらぼうに答えた。

 三日目の朝約束通りパスポートがバンコクから戻って来た。私はこれ以上用のない退屈なこの地を去ることにした。この宿では"LUANG PRABANG"までの高速ボートや低速ボートのツアーを手配していた。550バーツと個人でキップを購入するより高いが、トゥクトゥク(三輪タクシー)等の交渉の面倒がないので私も低速ボートのツアーに参加することにした。舟着場まで荷物を運ぶ車が来たので助手席に乗り込み出発を待っていると、女将が私の側に来て「またいらっしゃい」と私の肩を叩きながら言った。私も軽く手を上げ「また来るよ」と答えた。それ以来私は女将に好意を抱く事になる。

GOLDEN TRIANGLE
SAI RIVER, MEKONG RIVER
GOLDEN TRIANGLE
 
HUAY XAI, LAOS
出入国管理事務所, CHIANG KHONG

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