貧乏旅行の話

15.ラオス・ボートの旅

ラオスボートの旅

メコン川を下る 1
(フェイサイ‐ルアンパバン)

ウー川を下る
(ハトサ‐ムアンカ‐ノンキャウ)

メコン川を下る 2
(パクライ‐ヴィエンチャン)

メコン川を下る 3
(ドンコン‐ドンデェト)

メコン川を下る 4
(パクベン‐タースワン)

ラオスボートの旅

 インドシナ半島の内陸国ラオスを北から南へ縦断するように大河メコン川が流れている。メコン川は中国のチベット高原を源とし、雲南省を流れ、ビルマとラオスの国境となる。さらにタイとラオスの国境となり、ラオス国内を南に流れ、カンボジア中央部を流れ、ベトナムのデルタ地帯を潤し南シナ海へ注ぐ。全長4500km余りで世界で12番目に長い川である。
 メコン川はチベット高原ではザ・チュー(粘土の川)、雲南、北ラオスではランサン江(瀾滄)、カンボジアではトンレ・トム(偉大なる川)、ベトナムではソン・キウ・ロン(九竜江)と呼ばれている。

 ラオス北部に位置したタイとの国境の町"Huay Xai"はメコン川舟旅の基点だ。ここから北の"Xieng Kok"、南の"Luang Prabang"への舟が出ている。
 "Huay Xai"には4カ所の船着場がある。1番目はタイ"Chiang Khong"と国境を結ぶ物で、町の中央に位置する。2番目は町芯より北側1km程にあり、低速ボートの発着場である。3番目は町芯より北側2kmにあり、"Xieng Kok"へのボートが発着する。4番目は町芯より2km南に離れたところで、"Luang Prabang"への高速ボートの発着場になっている。この近くにはバスターミナルがある。

 ラオスのボートは大きく分けて2種類に別れる。8人乗りの高速ボートと、大型から小型までの低速ボートだ。
 高速ボートは競艇型の大きいタイプで、爆音を立てながら水面を水すましのように走る。速度も35ノット以上は出ている。船外機はトヨタ製エンジン40HP、16バルブEFIが利用されている。
 高速ボートは危険度も高く、死亡事故も発生している。安全に留意するならヘルメットに救命胴衣が必要で、水はねも激しくレインコートも必需品だ。
 低速ボートは豪華な物から粗末な物までいろいろあるようだ。ほとんどの舟には屋根も付いている。座席も舟により違いがある。ベンチシートの舟で長時間の旅をするのはかなり苦しい。舟の後部にはトイレもあるが快適とはほど遠い。

 食料と水は出航前に用意した方が賢明だ。途中の村などへの停泊時間も短く、必要な物が手に入らない場合もあり得る。"Huay Xai - Pakbeng"間は途中の村に商店もあり食料は手に入るが、"Pakbeng - Luang Prabang"間は川沿いに商店はない。

スローボート乗り場、Huay Xai
出入国ボート乗り場、Huay Xai

メコン川を下る 1(フェイサイ‐ルアンパバン)

 2002年2月、私はラオス北部の町"Huay Xai"より舟にてメコン川を下り"Luang Prabang"まで二日間、約12時間、距離300km余りの舟旅を楽しんだ。

 タイ北部国境の町"Chiang Khong"で泊まったゲストハウスにて、低速ボートの手配を依頼する。料金は550バーツ(約1700円)、この料金にはゲストハウスから出入国管理事務所までの車、国境越えの舟賃20バーツ(約60円)、ラオス出入国管理事務所から船着場までの車代、"Huay Xai - Luang Prabang"間の舟賃90、000kip(約9ドル)と案内料が含まれている。
 どちらも歩ける距離なのでトゥクトゥク(三輪タクシー)を利用せず、さらに船着場で自分自身で乗船券を購入すれば10ドル以内となる。
 
 タイの出入国管理事務所は朝8時に開く。朝一番に国境を越えラオスに入国する。9時過ぎには低速ボートの船着場に着いた。しかし乗る舟が決まり、荷物を舟の天井に乗せ、舟に乗り込んで出航したのは11時近くになっていた。出航を待つ間に水、ビスケットとバナナを購入する。タイのゲストハウスなどに依頼すればサンドイッチなどが手に入る。

 同時刻に出航した舟は4艘でほとんどの乗客は外国人観光客であった。舟は幅2m、長さ20m位で、40人程が乗れる。舟の最前部は操舵席、中間はベンチシートの客席、後部はエンジン室とトイレになっている。私の乗った舟は家族単位で運営されていた。夫婦と子供が二人、他に成人の男性が一人いた。男二人で操舵や見張りを担当し、婦人が機関長、12歳位の男の子は雑用係であった。下の子供は女の子でまだ小さかった。

 舟はメコン川の流れに乗りかなり早く進む。途中の村"Pak Tha, Pak Khawp"に停泊する。川沿いに物売りの小屋が並ぶ。観光客相手に民芸品や食料品などが売られている。
 自分が乗って来た舟が出航してしまい、乗り遅れた西洋人カップルがいた。一軒の食堂で焼蕎麦を食べようとしていたのだが、舟が出てしまい置いてきぼりにされる。私の乗っていた舟の船頭がこれに気付き、舟を接岸し二人を乗せる。彼等は皆の注目の的となったが、しっかりと焼蕎麦は手に持ち、空けてもらった席に腰掛け、蕎麦を黙々と食べ始めた。

 夕刻に舟は"Pakbeng"に到着した。船着場から通じる一本の道の両側に商店やゲストハウスが建ち並ぶ。この村のゲストハウスは何処も粗末で綺麗とは言い難いが、タイと比べ料金はかなり割高だ。ベットと蚊帳しかない部屋で100から150バーツ位である。一軒だけ船着場に近いところに"VILLA SALIKA"がある。ここは別格で部屋にはシャワー、トイレ、洗面所も付いている。料金は500バーツであった。
 他が余りにも酷いのでここに泊まることにしたが、親父は強気でどう頑張っても値引きしなかった。しかしバーツ払いからドルに替え、10ドルで決着を計ることにする。
 私がビラの親父と話していると三人の西洋人の若い女性が来た。自分たちが決めたゲストハウスが余りにも酷いので、ビラの部屋を見に来たのだ。

 この村への電気供給は18時30分から22時30分までの4時間であった。この村に電話はなく、衛星放送のアンテナが空を向いている。村外れの川沿いにお寺が二カ所あり、山吹色の衣を付けた若い坊さんが目立つ。
 翌早朝ビラの親父と村外れにあるマーケットへ行く。昨晩は満室になったとかで親父の顔はにこやかだった。

 8時には乗客が集まりだし、昨日とほぼ同じ乗客を乗せて舟は出航した。"Pakbeng"は国道2号線で"Muang Xai"に通じているのでここで下船する人もいる。
 メコン川のゆったりとした流れに乗り舟は進む。途中の村に寄り客を乗せる。見送りの子供達が集まってくる。道路が通じていない村も多く、舟が重要な交通手段になっている。
 川の両側は小高い緑の山が連なる。高い山が見えてきてメコン川はウー川と合流し川幅も更に増す。町が見え、小高い山の上に寺院が見えれば其処が"Luang Prabang"である。

 メコン川開発に関しては流域4ヶ国(ラオス、タイ、カンボジア、ベトナム)による「メコン川委員会」が1995年に設立された。中国、ビルマはオブザーバ参加だ。ここで各国のダム建設などの河川利用に対する利害の調整が計られている。
 その後私はメコン川に関係する旅としてベトナム"Mytho"でのメコンデルタ遊覧、カンボジアの"Neak Luong"でのフェリーボートによる横断をすることになる。

出入国管理事務所, Chiang Khong
タイ対岸の町、Huay Xai
橋を架ける計画もある
 
低速ボート内部、西欧人が多い
併走する低速ボート
 
メコン川から見た村、Pakbeng
早朝のボート乗場、Pakbeng
 
途中の村に停泊、子供達が見送りに来た
早瀬を超える
 
夕暮れのメコン川、Luang Prabang
メコン川と町並み、Luang Prabang

ウー川を下る(ハトサ‐ムアンカ‐ノンキャウ)

 2002年11月、私はラオス最北部の県都"Phongsali"にいた。前日"Muang Xai"よりトラックの荷台に乗り、林道まがいの国道を曇り空の中12時間余りかけて到着した。ここまで来ると観光資源が少ないためか、外国人観光客もいなく町は静かであった。
 私は"Phongsali"に二泊した後、早朝のトラックに乗り"Hat Sa"へ移動した。"Hat Sa"はメコン川の支流ウー川(Nam Ou)に面した村で交通の要所になっている。ここより3日間掛けて"Luang Prabang"まで川を下る予定にしていた。
 ラオスの舟は乗客が集まれば出航するが、集まらない場合には何日も待つ必要がある。前日の朝"Phongsali"を離れた中年男二人組のイタリア人旅行者は舟に乗れず船着き場にいた。

 その日は丁度土曜日で船着場周辺は露店も出て賑やかだった。船着場では高速ボートの呼び込みが盛んだ。料金は"Muang Khua"までは50,000kip(約5ドル)である。ラオス人は高速ボートを選び30分ほどで満員となり爆音を立てて出航していった。私は低速ボートにてゆっくりと景色を楽しみながら川を下りたかった。
 10人乗りの低速ボートに客は集まらず、しばし待つことにした。元締めは私達外国人観光客に舟をチャーターしろと盛んに勧める。交渉の結果料金は300,000kip(約30ドル)であった。それから1時間以上私達は待ったのだが客は集まらず、痺れを切らしたイタリア人がチャーターすることを決める。そして私にも一口乗れと言う。私は考えた末乗ることを了解し、100,000kipを元締めに支払うことにした。

 それからが問題だった。舟はチャーターしたが他に乗りたい乗客が3人程いたのだ。その人達をどうするか私の決断に任された。私は考えた末「無料で乗せるなら良い」と結論を出す。イタリア人もそれには賛成する。しかしその私の提案は守られなかった。私達のやり取りを見ていた人々は躊躇していたが、乗船する事を私が促す。元締めは彼等から料金を徴収しだしたのだ。

 ウー川はやはりメコン川と比べると幅も随分狭い。両側に山が迫る川の流れに乗って舟は進んで行く。舟は小型で、早瀬、浅瀬を越えていく。途中には村が点在しており、何時通るか解らない舟を待つ人がいる。その人達を乗せたり降ろしたりして舟は進んでいく。
 水の色はメコン川と同じ茶色である。両側にある山の緑と青い空が広がる。川岸の狭い斜面に畑が作られ、竹で編まれた高床式住宅が点在する。その中から薪を焚いた煙が上がる。川岸では水牛が水浴し、子供達が遊ぶ。網で漁をする人が見える。それらの景色が舟の進む速度で目の前を流れていく。

 "Hat Sa - Muang Khua"間は5時間余りで、夕暮れ前に到着する事が出来た。"Muang Khua"は道路で"Muang Xai"とベトナムの国境に通じている。しかし橋はなく簡易フェリーが車などの渡しをしている。この町に一泊し翌朝"Nong Khiaw"へ行くことにする。
 この町にはゲストハウスが5軒ほどあり、大きなホテルも建築中であった。夜になり西欧人が宿泊していたゲストハウスを訪ねる。彼等と情報の交換をしながらビールを飲み食事を取る。暗闇の中、両岸で会話を交わす人の声が山に木霊(こだま)する。しばらく後に乾いた「パン・パン・パン」という3発の銃声を聞く。恐怖心が私の胸をよぎる。心が落ち着いたころ懐中電灯の明かりを頼りに、自分のゲストハウスへ急いで戻る。

 翌早朝マーケットへ朝食を買いに行く。蒸し立ての餅米と七輪で焼いている肉を買う。ゲストハウスに戻り腹ごしらえを済ます。
 8時近くに船着場へ行く。その日も人が集まらず舟はなかなか出そうにない。我慢強く人が来るのを待つことにする。"Muang Xai"に行くトラックがあるのが解り、荷物を持ってイタリア人に別れを告げる。しかし私が着いたときにはトラックは出発した後であった。次のトラックは午後になると言う。

 時間潰しに船着場へ戻ると、彼等の乗った舟が川の中央で走り出していた。船頭は私を見つけ岸へ戻る。彼等は今日も舟をチャーターしたようだ。私は規定料金の45,000kipで乗り込む。
 "Nong Khiaw"が近くなるにつれて回りの山が高くなり、川幅も広くなってきた。岩壁がそびえ川が蛇行する。変化に富んだ景色が表れる。舟が橋の下をくぐると"Nong Khiaw"だった。5時間余りの舟旅である。

 翌日一人で舟を捕まえるのがかなり困難であることが解った私は、"Nong Khiaw - Luang Prabang"間はトラックで移動することにした。

ボート乗場前、Hat Sa
高速ボートと元締め、Hat Sa
 
早瀬を超える
10人乗り低速ボートとロベルト
 
道路沿いに並ぶ商店、Muang Khua
フェリーボート、Muang Khua
 
途中の村に停泊、Muang Ngoi
旅してきた夕暮れのウー川を眺める、Nong Khiaw

メコン川を下る 2(パクライ‐ヴィエンチャン)

 2005年2月中旬、ラオス北部を再訪する機会があった。今回はタイ北部よりラオス北西部の町"Huay Xai"に入国する。さらにメコン川をビルマ、ラオス国境沿いに北上し、"Xieng Kok"から"Muang Sing"へ向かう計画を立てた。しかしこの区間はスピードボートのみで、料金も1000バーツ前後とラオスとしてはかなり高額である。

 朝一番にラオス入国後、船着き場近くの旅行代理店にてボートの状況を確認する。相手の反応はまず「何人ですか」と聞いてくる。いつものことながら、人数が揃わなければボートに乗るのは難しいのだ。一般的にボートに乗る方法はまず船着き場に行く。そして何時集まるかわからない乗客を待つことになる。しかし今回は早々この時点で、このルートは諦めることにする。残された道はバスにて"Ruang Nam Tha"へ向かうことだ。昨日私と同じコースを取ると話していたフランス人の女性も諦めたようでバスターミナルに来ていた。

 2年間余りでこの周辺地域の状況はかなり変わっていた。バスターミナルは北に移動し、国道3号線も拡幅工事が随所で行われている。交通機関もピックアップトラックから、大型バスに変わり、"Vientiane"への直通バスも走っている。しかし道路舗装は完成していないためかなり埃っぽい。窓を閉め切れる冷房付きのバスはここでは望むべくもない。開け放たれた窓からは容赦なく砂塵が舞い込む。
 出発前のバス車内は荷物と西洋人バックパッカーで満員であった。先発の"Ruang Nam Tha"行きバスには乗れそうもないため、後発の"Vientiane"行きに乗ることになる。
 

 3週間余りラオス北部を旅行した後"Luang Prabang"にたどり着く。ユネスコ世界遺産に登録されているこの町は、観光客で混雑していた。その為か、ホテルやレストランの料金も、他の土地と比べ高く感じる。若いバックパッカーの他に、中年旅行者の姿も多く見られる。
 町の中心に位置する"Talaat Dala"マーケットは閉鎖されていた。町の中央通り"Thanon Phoththisalat"には夜間、観光客向けに土産物の露天がずらりと並ぶ。

 "Luang Prabang"から"Vientiane"ヘ行く方法は、航空機か国道13号線をバスやミニバンで移動するのが一般的である。しかし特異な方法としてバスとボートを利用して行くことも可能だ。このメコン川沿いに南下するコースは、最低でも3日間は必要となる。時間とお金に余裕のない旅行者には、無理なコースである。その為外国人旅行者がこのコースを取るのはまれである。
 ラオスはここ数年、西洋人旅行者でかなり混雑しているが、旅行者の集まる町と、そうでない所の差が激しい。外国人旅行者が集まる所は、安いゲストハウスも多く、レストランも充実している。しかしそれ以外の場所は言葉も通じず食事にも苦労することになる。

 今回、日程的に余裕のあった私は、メコン川南下コースを取ることにした。"Luang Prabang"から"Sainyabuli"へバスにて向かう。このコースの途中の町"Muang Tha Deua"にて、メコン川をフェリーで渡り西岸に移る。途中は道路沿いに小さな山村がある長閑なルートだ。所要時間は3時間余りであった。
 "Sainyabuli"は政府関連の大きな建物と、幅広い道路が縦横に走る近代的な町である。しかしあえて見るべき物もない静かな県都であった。ホテル近くの寺院を訪ねお坊さんと話をする。町外れには簡易飛行場もあるが、いやに静かであった。

 翌早朝のトラックにて"Pak Lai"へ向かった。"Luang Prabang - Sainyabuli"間の道路は舗装されており、何の問題もなかった。しかし、"Sainyabuli - Pak Lai"間の道路は未舗装で埃っぽく、悲惨な目に遭うことになる。この状況を知っている現地の人々はトラックの前席を確保していた。すれ違う車、前を走る車、自車の巻き上げる細かい土埃に、4時間余り悩まされることになる。
 私は雨具の上衣を羽織り、フードを被り、サングラスを掛け、さらにマスクをする。これが私の取った可能な予防対策であった。しかし荷物とジーンズは埃だらけとなる。

 やっとの思いでたどり着いた"Pak Lai"で、ボート乗り場近くのゲストハウスに落ち着く。早速発券売り場に行きボートの出発時刻を確認する。早朝8時出発であることがわかる。しかし毎日ボートは運行されていないようだ。係員の片言の説明で2日後にボートが出発するらしいことがどうにか理解できた。外国人料金は12万キップ(約12米国ドル)であった。
 丁度その窓口では"Vientiane"から戻ってきた人々が、身分証明書を係員より受け取っていた。この国の住民には何某かの移動制限があるようだ。
 
 川沿いに建つゲストハウスの窓から、眼下をゆったりと流れるメコン川を終日眺め、2日間を過ごす。このゲストハウスには若い5人のラオス人女性が宿泊していた。彼女たちは夜遅くまで男達と騒いでおり、そのいかがわしさが知れた。昼間は外へ働きに行くこともなく、テレビを見るなどして過ごしている。彼女たちに興味を抱いた私は英語で話しかけてみたが、英語は通じず、外国人との交流も少ないことを認識する。

 "Pak Lai - Vientiane"間に道路は通じていない。メコン川が首都へ抜ける唯一の交通手段である。ボートの椅子席は4列の木製座席が15余り並ぶ、その前後に桟敷席があり、100人以上乗船できる大きな船である。この区間にはスピードボートも走っているが、多くの人はこのボートを利用している。

 私の乗ったボートは結局9時出発となった。6人を乗せたスピードボート一艘は早々と走り去った。ボートは川の流れに乗り、かなり速いスピードで進む。この間の距離は約200kmで、所要時間は7時間余りであった。途中の町にて20人余り客を乗せた後は停まることなく進む。タイの"Chiang Khan"近くでメコン川は東へ流れを変える。そして川が再度タイ国との国境となる。

 メコン川は周囲の地形により大きく姿を変える。"Chiang Khan"までは比較的に開けた地形で幅広くゆったりと流れる。しかし"Chiang Khan"から"Vientiane"までの間には、川の流れが岩盤を削り、両側が岩に囲まれた水路を進む。
 後日、川沿いに走るタイ国内の道路を"Nong Khai"より"Chiang Khan"へ向かった。バス車内から見える景色と、川面に浮かぶボートからの違いを堪能する。さらに途中客を乗せるために何度も止まるパスはボートよりかなり遅いことを知る。

メコン川とフェリー、Muang Tha Deua
ボート乗場、Pak Lai
 
日の出、Pak Lai
スピードボート、Pak Lai

メコン川を下る 3(ドンコン‐ドンデェト)

 ラオス南部にあるクメール遺跡、ワット・プーを訪ねる。チャンパサック周辺はクメール民族発祥の地とされる。ここは2001年、ユネスコ世界遺産に登録されている。
 チャンパサックは古くは王国の首都であったが、フランス植民地時代に、パクセに取って代わられる。現在は小さな田舎町である。この町に2泊し、ゲストハウスの貸自転車を利用して、南部に位置するクメール遺跡を訪ねる。当日はあいにく雨に降られたが、観光客もおらず静かに古代遺跡を堪能する。

 私の訪ねた2004年5月下旬は雨季の始まりで、何処も観光客は少なく静かであった。高級カメラを提げたタイ人のカメラ愛好家や、中年にさしかかった観光客数組がいただけである。
 チャンパサックよりラオス最南端のシーパンドンを目指す。シーパンドンはカンボジアとの国境近くに位置し、大小4000の島からなる。最初に、この地域の北部にある一番大きな島"Don Khong"に向かう。観光客が多ければパクセやチャンパサックからボートにて行くことも可能であるが、閑散期では陸路を取ることにする。

 チャンパサックより早朝のパクセ行きバスに乗る。メコン川をフェリーで渡り、国道13号線と交わる"Ban Muang"にて下車する。さらに"Ban Muang"にて"Ban Nakasong"行きのバスに乗り換える。バスを途中の"Hat Xai Khun"にて下車し、ボートにて"Muang Khong"へ渡る。この島はシーパンドンでは一番大きな島で電気も供給されている。しかしあえて見るべき物もない島である。

 翌朝フランス人青年二人とゲストハウスが所有する小型ボートをチャータし、南部に位置するドンデェト島へ渡る。料金は片道一隻10万チャットであった。この料金は安くはないが、ボート‐バス‐ボートの乗り継ぎで行くより、時間的には有利であった。途中のメコン川では小舟にて漁をする人々が見られる。1時間余りのボートの旅である。

 ドンデェト島は道路も車も走らない小さな島である。島は平坦で、中央部は水田が作られている。フランス植民地時代に作られた、鉄道跡が唯一の道らしく、南部にある島と煉瓦製の橋で結ばれている。この島の観光資源は2カ所ある大きな滝と、イルカであった。
 島に電気、ガス、水道の供給はない。マーケットもないので、買い出しはボートで"Ban Nakasong"へ行く。そこで何処も船外機付きの自家用ボートを所有している。

 しかしこの島の川沿いには粗末な木製バンガローが並ぶ。バックパッカー達のリゾート地である。多くのゲストハウスの料金は一泊1ドルであった。バンガロー内には大きなベットと蚊帳があるのみで、電気の供給がないので扇風機も当然ない。雨季の蒸し暑い夜は窓を開け放して寝ることになる。
 私達はボートが接岸した島の東部中間にあるゲストハウスに落ち着く。ここは5棟の高床式バンガローと食堂を持つ。英語を話す若い娘が一人おり店を切り盛りしていた。このゲストハウスには既にフランス系カナダ人数組が宿泊しており、フランス語が飛び交っていた。夜間食堂は小型発電器にて電灯が灯り、宿泊者全員がそろい賑やかに夕食を取っていた。フランス語を解せない私と、イギリス人女性は蚊帳の外であった。
 私はバンガローのハンモックに揺られながら、前の水路を通るボートを眺め、旅の一日を長閑に過ごすことになる。

ワット・プー、Champasak
子供達、Don Det
 
Somphamit Falls、Don Khon
メコン川の夕暮れ、Don Det

メコン川を下る 4(パクベン‐タースワン)

 2010年6月、ラオス北部を旅行した後、私はタイへ戻るルートを考えていた。いつもはウドムサイよりルアンナムターを経てフェイサイに戻るルートを取っていた。このルートは2008年頃にフェイサイールアンナムター間の国道3号線が拡幅、完全舗装され時間短縮された。しかし、ウドムサイールアンナムター間は相変わらず道が悪く、予算がないのか満足に補修もされていなかった。
 このルートには直行バスも走っており、以前より数段便利になっている。事故や故障がなければ7時間ほどで抜けられる。現在はウドムサイを早朝発のバスに乗れればメコン川を渡り、タイに当日入国することも可能だ。

 今回はウドムサイより南西方向に国道2号線を行き、メコン川沿いにあるパクベンに出るルートを取る。そして川を横断しバスに乗るか、不定期船、または定期船にてルアンパバン方向に進み、タースワンにて下船する計画を立てた。
 パクベン到着は12時頃であった。町外れからソンテウに乗り船着き場まで行く。地元の人々はここから直接船に乗るようだ。船頭はタースワンまでの船賃は8万キップ、ラオス人は5万キップと話した。私は船頭の言う外国人料金に納得できず、そして値段交渉はまとまらず、この地に一泊することに決める。

 パクベンは2002年の初めてのラオス旅行で、最初に宿泊した地である。観光ボートで有名になった、フェイサイからルアンパバンへ向かうスローボートは夕刻到着し、旅客はここで一泊する中継地である。その当時の宿はタイと比べ設備も悪く、多くは木造のバラック小屋であった。部屋には粗末なベットと蚊帳があるのみで、電気の供給も夜の3時間ほどしかなかった。料金は200バーツ前後と不当に高かった。
 その後村がどう変化したか、見てみたい気もしていた。黙っていても客が来る状況にある村は、蓄財を得てゲストハウスはかなり良くなっていた。今回宿泊した船着き場近くのゲストハウスはシングルベッド2台、温水シャワー、トイレ付きで、150バーツである。

 私は旅行者のいない村内を見て歩く。道の両側にあるゲストハウスは建て替えられ、レストラン、バーなども建ち並ぶ。立ち寄った寺院近くでは子供誕生祝いのパーティーが行われていた。私は彼らに誘われ同席し、ビールを振る舞われる。
 夕刻フェイサイからの船が到着し、宿の客引き達が宿の案内写真を持って旅行者に群がっていった。ここに来る旅行者の多くは西洋人のバックパッカーである。その中に一人旅の老婆がいた。それを見てラオス旅行も一般的になったことを知らされた。

 翌朝、西洋人旅行者と共に船に乗り込む。8年前に乗った船よりは大型化され、設備も充実していた。椅子には座布団があり、スナックやコーヒーを売る売店もある。トイレも洋式で、広々としていた。乗客は床に寝転んだり、本を読んだりして船旅を楽しんでいた。メコン川は緑豊かな山の間をユッタリと流れている。
 9時過ぎに出航した船は2時間ほどでタースワンに到着する。船賃は4万キップであった。ここで船を下りたのは西洋人カップルと私の3人である。タースワンは戸数20軒ぐらいの小集落だ。食堂と、ゲストハウスがある。ソンテウは客が集まるまで船着き場近くで待っていた。その間私はメコン川を行き来する船を見ながら時間をつぶした。
 午後2時頃ソンテウは動きだし、タースワンより山間部を抜ける林道をホンサに向かう。

ボートが到着、Pak Beng
夕刻のパクベン、Pak Beng
 
ボート内
売店
 
村落、Tha Suang
メコン川、Tha Suang

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