貧乏旅行の話

16.イラク人と出会う

イラク旅行を計画する

動乱に遭遇する

イラク人と出会う

イラク旅行を計画する

 私の手元に一冊のイラク観光案内書がある。160ページもある本格的な英文のカラー版だ。発行年は不明だがイラク広報省が発行した物である。1974年4月偶然訪ねたイタリアのミラノで開催されていた国際見本市で、イラクのブースを訪ねおりに其処にいた係員から貰った物だ。その頃私は中近東、アジアを通過し日本に帰国するために各国の資料や情報を集めていた。小ぢんまりとしたイラクのブースで旅行事情を聞こうとしたのだが詳細は解らず、代わりにその人が個人的に持っていたこのガイドブックを貰うことになった。

 初めてイラク共和国に行こうと計画を立てたのは、今から30年程前の1973年の中旬であった。世界四大文明の一つであるメソポタミア文明発祥の地、チグリス・ユーフラテス川沿いにあるバクダットやバビロンの遺跡を訪ねてみたいと考えていた。
 1974年5月私はヨーロッパ滞在を終えて日本へ帰国する途中に、中近東諸国を訪問する計画を立てた。以前はエジプトのカイロより陸路でシナイ半島を通り、イスラエルに入るコースも考えられた。しかしその当時は第四次中東戦争の後でシナイ半島はイスラエルに占領されていた。このルートは先ずあり得なかった。

 1974年7月エジプトの北部港町アレキサンドリアより二泊三日の船旅で地中海を北上し、ギリシャのピレエフスへ向かった。その後ギリシャ−トルコ−レバノン−シリア−イラク−イランの陸上ルートでアジアを目指す計画を立てた。しかし当時でも単なる観光旅行で、イラクを訪問するのはかなり難しいようであった。
 同じアラブ諸国でも観光立国を目指すエジプトのように、飛行場到着後100米国ドル余りを強制両替すれば、観光ビザが取得できる国も存在した。イラクの隣国シリアも何の問題もなく短期間で観光ビザが取得できた。しかしイラクはそれらの国々とは大きく違っていた。

 エジプトのカイロにあるイラク大使館に観光ビザの発給申請に訪ねた。しかし大使館独自の判断ではビザ発給は出来ず、本国照会が必要であった。本国照会の場合発給には一ヶ月以上かかる可能性もあった。私は1974年5月から7月の約2ヶ月間エジプトのカイロに滞在していた。この間にイラン大使館を訪ね発給申請を打診したが、ビザを受け取ることなく諸般の事情でエジプトを離れることになる。
 その後ギリシャ、トルコと旅行するのだが、この旅行中にビザが取得できる可能性はほとんどなく、イラク訪問を諦めトルコ東部"KAYSERI"より鉄道にて直接イランへ入国することになる。

 1973年10月にアラブ諸国(主にエジプト、シリア)とイスラエルが戦う第四次中東戦争が勃発、アメリカから最新兵器の援助を受けているイスラエルが戦力に勝り、6日間余りで優劣が決する。そこでアラブ産油国はイスラエルを援助するアメリカなどに対抗する手段として、原油価格を3米ドルから4倍ほどに値上げした。そしてその利益をアラブ諸国に援助する。その結果全世界的に石油製品価格が高騰、物資の売り惜しみから品不足が発生する。
 石油価格の高騰により世界中が経済的大混乱を起こすオイルショックに見合われる。日本においては洗剤やトイレットペイパーの買いだめ騒動が発生する。私はその時期ヨーロッパに滞在していたが、冬季にも係わらず宿泊施設によっては暖房が入らず、水シャワーしか出ないユースホステルもあり、西欧人の倹約的生活を強く味わうことになる。

 結局は観光ビザが取得できず訪問することの出来なかったイラクは、その後世界情勢や独裁者が政権を握り大きく変化することになる。さらにイラクは世界の注目を浴びる事件が発生する。

 1968年   :サダム・フセインは革命評議会副議長、バース党副書記長に就任
 1973年10月:第四次中東戦争勃発
 1974年 6月:ニクソン米国大統領エジプト訪問、8月ウォータゲート事件で失脚
 1979年 2月:イランで宗教家ホメイニ氏がフランスより戻りイスラム原理主義革命が勃発、
          パーレビ国王を援助していたアメリカは対抗策としてイラクを援助することになる
          サダム・フセインは大統領、革命評議会議長、バース党書記長に就任
 1980年 9月:国境紛争を主原因とするイラン・イラク戦争が勃発
          アメリカはフセイン政権を全面的に支援
 1988年 8月:イラン・イラク戦争が終結
 1990年 8月:イラク軍クエートに侵攻し併合
 1991年 1月:国連安全保障理事会が採択され湾岸戦争が勃発、5週間の戦闘で米軍150人余りが死亡
       2月:イラクが国連安保理決議を受諾、クエート解放

 2001年 9月:米国にて同時テロの発生、後にアルカイダの仕業と断定
      11月:米国とイギリス軍はアルカイダ制裁の名目でアフガニスタン攻撃 
 2003年3月20日:国連安全保障理事会の決議を経ずにアメリカ合衆国大統領ジョージ・ブッシュは米英軍にてイラク攻撃開始、小泉首相と日本政府は戦争を支持
 2003年4月9日:イラク政府は活動を停止、イラクを支配していたフセイン大統領や政府高官が姿を消す
 2003年5月1日:ブッシュ米国大統領イラク戦闘終結宣言発表

 第一次湾岸戦争はアメリカがイランに対抗するために支援したサダムフセインが、クエート侵攻や核開発などのアメリカの意にそぐわない行動をしたことへの制裁的意味合いが強い。戦争終了後もサダムフセインはイラクの大統領としてその後も権力を保持し続ける。イラクはその後長期間に渡り世界各国から石油輸出禁止や貿易などの経済的制裁を受けるのだが、クルド人への迫害など強権的政治が継続する。

 今回の戦争は「イラクとアルカイダとの関係」「核開発」「化学兵器」や「大量破壊兵器」への疑惑が発端とされる。しかしアメリカ軍やイギリス軍の占領下にあっても、これらの「兵器」は現在まで発見されていない。アメリカやイギリスに於ける戦争開始前の情報操作などが指摘され始めている。アメリカは石油などの利権を独占するために都合の良い理由を付けて、国連決議を経ずに一方的に開戦し、占領したことになる。

 この状況で推移するとアメリカ合衆国とイギリスは他国に正当な理由無く侵略し、大量破壊兵器を持つ「テロ国家」「ならず者国家」に該当する。小泉政権は国連決議をないがしろにし、アメリカの侵略を無条件で支持した。さらに軍隊(自衛隊)の派遣をも実行した。アメリカに軍事基地を提供している日本は「テロ支援国家」に該当するようだ。
 今後ジョージブッシュはオランダハーグ市にある国際刑事裁判所にて戦争犯罪者として裁かれることになろう。小泉純一郎も責任を問われるかも知れない。しかしアメリカも日本もこの条約を批准していない。

ニクソン米大統領エジプト訪問
1974年6月カイロ
ナイル川とアレキサンドリアの街
 
地中海船の旅
Alexandria - Piraeus

動乱に遭遇する

 旅行中に訪問している国で動乱や内乱に出会うことは、安全面から考えてけして良いことではない。如何に物見高い旅行者と言えども、戦争となれば話は別だ。しかしただの旅行者には今後の国内状況が悪化を辿るのか、改善するのか解りにくい。誰でも「命の保持」を最優先するならば早急に国外脱出を計ることになる。しかし戦時下では一般的に航空機、鉄道、バス、船舶などの交通機関が一切に停止するか混乱する。旅行者は交通手段を失い身動きが取れなくなる。

 1974年7月エーゲ海にあるキプロス島で、トルコ系住民とギリシャ系住民の間で戦闘が発生する。キプロス島は第一次世界大戦以前はオスマントルコに属していたが、敗戦後イギリス統治下に置かれる。その後キプロスは1960年8月イギリスより共和国として独立を果たすが、75パーセントを占めるギリシャ系住民と12パーセントのトルコ系住民間で諍いが絶えなかった。トルコ系住民の権利を守る名目でトルコ軍が進駐し、ギリシャ系住民を守るためにギリシャ軍が参戦し戦争になる。両国間の関係が一気に悪化し緊張が高まる。

 キプロス島に於ける両国間の交戦は世界の批判を浴び短期間で終了するが、1975年2月より島北部はトルコ系住民により独自に運営されている。さらに1983年11月北キプロス共和国が一方的に独立する。しかし国家として承認している国はトルコぐらいだ。先の戦争以来南北間に中立地帯が設けられイギリス軍や国連軍が駐留している。

 キプロス島は地中海の東部、トルコの南部に位置し、面積9250km2、人口77万人、2002年の住民比率はギリシャ系住民75パーセント、トルコ系住民12パーセント、その他3パーセント。宗教はギリシャ正教78パーセント、モスレム18パーセント、その他4パーセントとなっている。
 トルコとギリシャの歴史的関係は1456年ギリシャはオスマントルコの支配下になる。1821年ギリシャ独立戦争勃発、その後100年間で数度の戦争があり国土を拡大する。現在トルコ南西部に面するエーゲ海のほとんどの島々はギリシャに属している。この二国間の領土問題は歴史の変転を感じさせる。トルコにはキプロスを失いたくない強い事情があるようだ。

 1974年7月私はギリシャのペロポネソス半島をミケーネで知り合った、フランス人男女三人(アレン、ジェーン、フランソワズ)と行動を共にしていた。7月は夏休みの観光シーズンで多くの西欧人が観光旅行に来ていた。私達が"NAFPLION"に滞在しているときにギリシャ軍とトルコ軍がキプロス島で交戦したことを知る。
 この戦争によりギリシャでは観光客を集めるフェスティバルなどの予定が総て中止された。さらに各島々への船便も止まった。私達はエーゲ海にあるミコノス、ロードスなどの島々への旅行予定を変更し、首都アテネにバスにて戻ることにする。アテネ市内は平時とそう代わりなく見えたが、市内のバスなどは軍が徴用していて使えず、タクシーにてシンタクマ広場近くまで移動し安宿に落ち着く。

 キプロス戦争でギリシャ国内の航空機、船舶、列車が一切に止まり、為替銀行での外貨受取も停止され旅行者は身動きが取れなくなった。アレンの知人であるギリシャ人に今後の状況を相談すると、早く出国した方がよいとの見解であった。そこでギリシャからの出国方法を考えた。ギリシャ、トルコ間の国境が閉鎖されたままであれば、第三国を通過してトルコに入国することも考える。
1.列車でブルガリアのソフィアに抜け、ソフィアよりイスタンブールへ抜ける。
2.航空機で第三国に飛びトルコに入国する。
3.船でベイルートなどの第三国に行きトルコに入国する。
 何はともあれ通過する第三国のビザが必要なのと、列車以外は経費がかかりそうであった。西欧人の多くはアテネの南部にある港ピレエフスよりイタリア南部の"BRINDISI"へ船で渡ろうとしていた。私はアテネ中央駅へ何度か行き列車の予定を確認する。

 7月23日夕刻、シンタクマ広場にはギリシャ国旗を持った人々が集まり、デモ行進をしている。今回の事件がきっかけで政変があり新しい大統領が誕生した。国会議事堂近くのホテル前には新しい大統領を歓迎しようとする人々で混雑している。新聞の号外が売られ、民衆が持つ小旗がふられる。時々人々の拍手とざわめきが聞こえる。
 私はジェーンとフランソワズに誘われ深夜のシンタクマ広場に行く。彼女達は南フランスの田舎町に住んでおり絵の教師をしていた。この様な人混みが珍しく興奮気味であった。

 翌日鉄道会社の市内事務所でイスタンブールへのキップが購入できる。列車が動き出したようだ。運賃は769ドラクマ(約26米ドル)であった。これでギリシャ出国の手段は確保された。フランス人3人組はエーゲ海への船が動き出したのを確認しアテネを離れた。

 7月25日20時アテネ駅を発車した国際列車は"THESSALONIKI"に翌朝の6時に到着する。乗客が少なくなったことで私はトルコ行きの車両に乗り換える。さらに2時間ほど走った"STRIMON"駅にて列車はブルガリアの"SOFIJA"行きと分離される。私の乗った客車はユーラシア大陸を更に東へ向かって走る。
 車窓からの景色は低い丘が続き、牧草地が多い、放牧された牛、山羊、馬が見られる。森林は少なく岩肌の見える荒れ地に低木が生えている。トルコ国境が近づくにつれ軍人の姿が目立つ。屋根の上に木の枝を乗せカモフラージュした幌付き軍用トラックに軍人が乗っている。走りすぎる列車に手を振る姿が見られる。更にトルコ国境に近づくと線路脇の草地に戦車が走行したキャタピラの跡などが見えてくる。

 トルコとの国境の町"PITHION"に着いたのは26日の夕刻であった。キプロス紛争後初めて国境を通過する列車の為かなかなか発車しない。この駅に3時間余り停車する。
 私が乗った1両の客車のみがトルコ側から来たジーゼル機関車に牽引され10分ほどゆっくりと走り国境の鉄橋を歩く速度で渡る。線路の両側には銃を持った軍人が警護する緊張漂う深夜にゆっくり列車は走りトルコに入国する。その後トルコ側で2時間余り停車、貨車や客車が連結されイスタンブールへ向かった。27日の12時、約40時間、1350kmの列車の旅が終わりイスタンブールに無事到着する。

国会議事堂前、Athine
Acropolis
 
フランス人旅行者

イラク人と出会う

 初めてトルコ共和国を訪ねて20年余り経過した1993年6月、私は再度イスタンブールを訪ねることになった。今回の旅行は東ヨーロッパ諸国のハンガリー、ルーマニア、ブルガリアの三ヶ国を主に鉄道を利用して旅行した後に、イスタンブールより中継地のクアラルンプールへ飛ぶためであった。
 利用した航空会社の関係で行きはオーストリアのウイーンに到着し、鉄道にて隣国ハンガリーに入り、東欧三ヶ国を旅行した後トルコのイスタンブールから帰国する予定となった。
 東ヨーロッパ諸国は1980年代後半から変動の時代であったが、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアは安定を取り戻していた。しかしアルバニア、ユーゴスラビアは内戦状態で外国人が旅行できる状況になかった。

 ブルガリア北部のベリコ・タノルボより首都ソフィアに到着したのは6月30日の午後となった。駅の近くにホテルを決め銀行でドルを現地通貨レバに両替後、鉄道会社の事務所に行く。早速列車の出発時間を確認し、ソフィア−イスタンブール間の乗車券を購入した。
 ソフィアからイスタンブールへ直接行く列車はバルカン急行とイスタンブール急行の一日2本しか無く、夜の早い出発時間のイスタンブール急行に決める。二都市間の距離は634km、運賃は二等寝台車のコンパートメントで1053レバ(約40米ドル)であった。
 この列車はドイツ南部のミュンヘンを18時に出発し、オーストリアのウイーン、ハンガリーのブタペスト、ユーゴスラビアのベオグラードを経由し、トルコのイスタンブールへ翌々日の9時に到着する国際列車である。

 私は乗車券を購入後ソフィア市内の寺院や博物館を観光する。ブルガリア建国の父と言われるディミトロフ廟などは落書きがされており、前の広場は駐車場と化していた。かつていた衛兵の姿も見えず、政治体制の変転を強く認識させられることになる。
 翌日は早朝のバスにてリラの僧院を訪ねた。リラはソフィアの南130kmの山中に位置し、オスマントルコ時代にはイスラム文化からブルガリアの文化や言語を守る砦となったところだ。交通手段も不便でソフィアからの直通バスは一日に2本しかなかった。帰りのバスの出発時刻もはっきりせず、ほぼ一日を山中の僧院にて静かに過ごすことになる。

 ソフィア出発当日は荷物を持って駅に行き一時預かりに預けた。身軽になって市内を観光し、デパートで土産物を捜したのち夕刻の駅へ戻る。汽車の出発時刻は19時55分であった。ソフィア駅構内にはデジタル式の時刻掲示板がある。自分の乗るべき列車の時間を確認すると、200分余りの遅延らしいことが解った。駅舎内のベンチに掛けて列車の到着を待つことにする。
 ふと近くを見るとアラブ人らしき家族連れがいた。多くの荷物を持っている。20代後半から30代前半に見える夫婦と6歳ぐらいの女の子が一緒だ。彼等も長い時間待合室にいたので話をする。同じ列車を待っていることが解った。

 列車は3時間余り遅れてソフィア駅に到着した。時刻は深夜に近かった。私達は荷物を持ってプラットホームに急いだ。薄暗いプラットホームで自分に割り与えられた車両を捜す。車両番号482は見つからず、車掌に詰め寄る。車掌はともかく乗れと合図する。イラク人親子の車両も見つからず一緒に乗り込む。列車は直ぐに動き出した。通路で待っていると先程の車掌が来た。慣れた手つきでキップを確認し、私達に一つのコンパートメントが与えられた。
 列車は深夜のブルガリアを東に走り、トルコへの国境通過は朝の4時過ぎとなった。

 イスタンブールに翌朝9時到着の予定が、大幅に遅れ12時過ぎとなった。駅前よりタクシーに乗り運転手の知っているホテルへ行く。部屋を決め遅い昼食を近くのレストランで一緒に取る。
 鉄道駅を中心とする地域はトプカピ宮殿の北側で、旧市街に該当し20年前と大きくは変わっていなかった。しかし駅前には路面電車が走っている。夕刻前に4人で市内観光に行く。アヤソフィア、ブルーモスク、ヒッポドロームを見た後、ガラタ橋脇のボーアズ桟橋より船に乗りボスポラス海峡を渡りアジア側にあるハレムに行く。20年前この近くの鉄道駅ハイダルパジャより日本を目指したことが思い出された。 
 
 このイラク人夫婦と子供が何故旅行していたのか私には明らかでなかった。最初はヨーロッパからイラクへ陸路にて帰国する途中とも考えられた。以前は長期間ドイツにいたらしいことは話から解った。その時は働いていた様である。イラクでは二人とも学校の教師をしていたと話していた。
 写真を撮ったので送り先を聞いたのだがイラクの住所は言わなかった。さらにいつ帰れるか解らないと話していた。当分の間イラクには戻らない様子であった。

 彼等は湾岸戦争後の制裁下で費用のかかる海外旅行ができる身分なのか、それとも出稼ぎに来ているのか、ドイツでは不法滞在で居られなくなったのか等不明であった。サダムフセインの強権政治を嫌っての出国か、何等かの事情で国を抜け出して来ているらしいことは理解できた。しかしイラクでは一般人が自由に海外に出られるとも思えない。彼等は自分達がイラク人であることを隠そうとはしていなかった。

リラの僧院
ディミトロフ廟、ソフィア
 
Sirkeci イスタンブール駅
イラク人母子

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