貧乏旅行の話

26.素晴らしきインド

 インド再訪

インドは変わっていたか

インド人は旅行好き

素晴らしきインド

インド再訪

 インドへの旅行は今回で2度目となる。しかし初めてのインド旅行は30年も昔のことだ。1974年9月中旬、私はパキスタンのラホール(Lahor)より国境を越え、インドのアタリ(Attari)に入国した。当時この国境は外国人旅行者の為だけに、解放されていた。パキスタン‐インド間にはカシミール領土紛争が存在し、両国民の往来は許可されていなかった。
 インド入国後、西から東に向かい移動した。インド北西部パンジャブ州、シーク教の聖地アムリッツアール(Amritsar)より、スリナガール(Srinagar)に向かい、インド北東部カルカッタへ抜ける2ヶ月ほどの旅である。途中イスラム文化、ヒンズー教や、仏教の聖地を訪ねる。

 その頃の私は今よりもかなり若く、知識欲や体力も十分にあったはずである。しかしこのインド旅行中に、荷物の盗難にあったり、航空券購入時のごたごたを体験する。そのため、あまり良い印象は残っていない。ヨーロッパと比べかなり精神的、肉体的にもきつい旅行であった。
 その頃のインドは経済的に乏しく、町中では牛、山羊、豚などの動物と人間が共存していた。そのため町はけして清潔ではなく、さらにインド人の持つ強力な個性に当てられ、不信感を募らせていた。行動中は盗難に注意を払うなど、緊張を強いられる毎日であった。
 当時の両替レートは1米国ドル=7.6ルピー(約39円)であった。

 Amritsar - SRINAGAR - DELHI - JAIPUR - Agra - Khajuraho - Varanase - Lumbini - (ネパール)- PATNA - Nalanda - Rajgir - Budhgaya - CALCUTTA
 

 インドは日本の9倍(329万平方キロメートル)の国土を持つ大きな国だ。インド国内は28の州と7つの政府直轄地に分けられている。インドの領土は東西2900キロメートル、南北2900キロメートル余りで菱形に近い。
 私が初めて訪問した1974年の人口は6億人を超えていた。2005年の人口は10億8千万人を越える。その後の30年間で、5億人余り増加している。ほぼ倍近く増えたことになる。現在世界一の人口大国である中国と比べると、国土は3分の1に過ぎない。しかし人口密度は日本とほぼ同様で、過密国家だ。人口増加率も1.4パーセントと大きい。2050年には中国の人口を追い越すと予想されている。
 インドにおける2004年度のGDPは6600億米国ドル。そして1人当たりのGDPは620米国ドル余りとなる。

 1991年に計画経済から市場経済へ、自由化政策が導入される。ここ数年中国と並び、経済成長も著しい。そのため次期市場として注目されている。日本企業の進出も著しい。鈴木自動車が国営合弁企業を立ち上げ成功したことや、インド人は英語が得意との理由からIT産業が持てはやされている。町を歩いていると日本企業の看板も見られる。
 日本では中国と共に、インドの経済発展の可能性が注目されている。しかしそれは本当であろうか。以前と同じ一部特権階層のみの現象ではないか。大都市ではコンピュータ関連の企業が、経済発展の象徴となっている。事実それは統計的にも確かであろう。反面人口の増加と共に貧民層人口も増加しているのも事実であった。

 インドでは富裕層と、貧民層の階級差が未だ大きく、社会問題となっている。人口の60パーセント(1999年度統計)を占める農民層、しかも農業の生産性は24パーセントと低い。3.9億人余りの人が、1日1米国ドル以下で生活していると言われる。貧民層の栄養不足も深刻で、5歳以下の半数は栄養失調と言われる。子供が安い労働力として現在も利用されている。
 それらの人々の生活ぶりを目の当たりにして、「インドはちっとも、変わっていないではないか」と私に強く感じさせた。 

 インドの標準語とされるヒンディー語を話す人口は、30パーセント余りに過ぎない。インド南部タミールナドウ州のように、ヒンディー語など話す必要を感じていない人々もいる。
 インド人の識字率は60パーセント余りと言われる。それから推測しても英語を読み書き、話すことが出来る人々は30パーセント余りであろう。大都会の富裕層は小さい子供に英語を勉強させている。一般的なインド人が話す訛りの強い英語の発音とは違い、英国に近い人もいる。親子の会話に英語を利用する人々もいる。しかし地域や環境により、第二標準語に当たる英語を話す必要のない人々も多い。
 

 再度インドに行こうと思い立ったのは、ジャイナ教の聖地の写真がきっかけだった。インド旅行の魅力は古い歴史、遺跡、インド社会の多様性にある。宗教の違い、言語の違い、文化の違い、習慣の違い、マハラジャなどの大金持ちと貧乏人、ヒンズー教、イスラム教、キリスト教、シーク教、ジャイナ教など宗教の共存などであろう。
 それまではあまり行きたいとは思っていなかった。前回旅行時の印象があまりにも強烈で、明らかに腰が引けていた。無理をしてまで行く理由がなかった。 

 大きな国を長期間旅行する際には、どの都市から入国し、何処から出国するかを決めなければならない。選択した航空会社が就航しているかの確認も必要だ。深夜の空港からインド旅行を始めるのを、治安の点から躊躇した。私は午後の2時、空港に到着出来る南インド、ベンガル湾に面した都市チェンナイ(マドラス)から始めることにした。入国後、南と西インドを観光した後、デリーに入り、コルカタ(カルカッタ)から抜けることにする。

 旅行は季節の変化にもかなり左右される。北部インド、カシミール地方の観光は夏期に限られる。雨量の多い地域はモンスーン期(雨季)には洪水などの心配もある。内陸部の夏は40度を超す暑さであり、屋外を歩き回る状況ではない。そして、観光シーズンで航空運賃や、ホテル料金などが高いのも避けたい。鉄道、バスなど交通機関の混雑なども考慮に入れて、旅行する時期を決めることにした。

 CHENNAI(Madras) - Mamallapuram - Pondicherry - Thanjavur - Tiruchirapalli - Madurai - Rameswaram - Kanya Kumari - TRIVANDRUM - Cochin - Ooty - Mysore - BANGALORE - HYDERABAD - Hampi - Badami - PANAJI - Pune - MUMBAI(Bombay) - Aurangabad - Ellora - Ajanta - Mandu - BHOPAL - Sanchi - Ahmedabad - Palitana - Udaipur - Mount Abu - Jodhpur - Jaisalmer - Ajimer - DELHI - KOLKATA(Calcutta)

たばこ屋、Jodhpur
手押しタクシー、Mount Abu
 
弾き語りの老人、Jaisalmer
山羊飼いの少年、Hampi
 
水くみの娘、Hampi
少女達、Palitana

インドは変わっていたか

 2005年9月10日、成田を午前11時発のタイ国際航空機にてバンコクに向かう。バンコクで一泊した後、翌朝の飛行機にてチェンナイ(マドラス)へ向かった。私の隣に腰掛けた小太りの中年女性はインド人である。彼女はコンピュータソフトウェアー会社の営業部長であった。日本での契約交渉を終え、その帰りであった。
 私は彼女と短い会話を持った。これからインドを3ヶ月間ほど観光旅行すること。さらにインド訪問は初めてではなく、30年振りであると話した。それに対して彼女は「随分変わっているわよ」と答えた。

 その検証は3時間後に待っていた。私はチェンナイの飛行場に降り立ち、通関を済ませ屋外に出た。オート力車(三輪タクシー)の呼び込みを振り払い、広い駐車場を歩いて横切り、道路に出たときにそれは判明した。インドでは飛行機に乗るような階層の人が、歩いて飛行場を出ることはほとんどないであろう。しかし貧乏旅行者を自負する私はあえてその道を取った。

 駐車場の出口で料金徴収の係員に駅への道を確認した。道路に出ると反対側に鉄道の高架橋が見える。私は駅の方向を定め歩き出し、すぐにインドを強烈に感じた。道路にはゴミが溢れ、牛の糞、人間の排尿の臭いが鼻を突いた。最初は排泄物を踏まぬように歩道を気をつけて歩いていく。すると人糞が転々とある。これでは歩けないので車道を歩くことにする。
 500メートル余りの距離を、やっとの思いで"Tirusulam"駅にたどり着く。そしてインドは30年前と変わっていないことを確信する。30分ほど待って到着した郊外電車に乗り、町の中心地エグモア(Egmore)へ向かう。当日は日曜日の午後で車内は比較的に空いていた。

 大きなエグモア駅に降り立ち、駅前でホテルを探す。料金の割に部屋は良くない。さらに納得できる部屋を求めてホテル街を歩く。大きな荷物を持って歩いてくる外国人は客引きの標的であった。あちこちから声がかかる。道路を牛が闊歩している。自動車が狭い道を警笛を鳴らしながら通り過ぎる。喧噪の中で私のインド旅行は始まっていた。そして到着後2日で体調を崩す。
 

 インドでは町や村を歩いていると、オート力車の運転手、商店の店員、ホテルの客引き、行商人、子供達から声がかかる。それは昔も今も同じだ。しかし、彼等が発する言葉は時代と共に変化していた。
 以前は若い外国人旅行者に対し「ヒッピー」「パイサ、パイサ(インド貨幣の最小単位)」「バクシッシ」と声が掛けられた。その頃はヨーロッパからの若者達が、自由とドラック、異文化を求めインドを旅していた。子供達は彼等を「ヒッピー」と呼んでいた。そして後に続くヒンディー語は「金を恵んでくれ」の意味だ。

 今回の旅行ではそれが「スクールペン(School pen!)」「ウィッチ カントリー(Which country?)」「ファッツ ユア ネーム(What your name?)」「ルピー、ルピー(インド通貨の単位、約2.7円)」に変わっているだけだった。観光客から物を貰おうという慣習は、子供から子供へ受け継がれていた。
 一人の旅人が、文房具の行商人ではあるまいし、皆に配るほどのペンや鉛筆を持って旅している訳もない。子供も、大人も反応は同じであった。

 これらの言葉は子供や若者達から、町を歩いていると際限なく浴びせられる。それほど彼等は外国人に好奇心旺盛なのだ。英語が話せるか、話せないかは関係がない。自分の好奇心を満たすために、たまたま通りかかった異邦人に声をかける。それを人なつこい、友好的と感じられるのは旅の最初だけであった。これには段々うっとうしくなってくる。
 私はその日の気分により、それらの問いかけに素直に答えるのだが、同じ質問にウンザリすることも多い。また彼等の質問に答えても、それ以上の会話が続かないことだ。それは話しかけてきた子供達が英語をそれ以上知らないからだ。しかたなくデジタルカメラで写真を撮り、交流を図る。子供達は写真好きだ。

 有名観光地に行くと、さらに絵葉書や土産物を売る行商人達から、しつこく付きまとわれる。これには土産物の不要な私には、ただウンザリするばかりであった。「土産物など必要ない」と拒否すると、「おまえは本当に日本人か」と不思議がられる。そして一回の断りで素直に引き下がるインド人などいない。「ここの記念に貴方はこれを買うべきだ」とさらに迫ってくる。彼等の行為は脅迫に近く感じられた。

 その後チェンナイの南に位置する、世界遺産のある観光地ママラプラム(Mamallapuram)を私は訪ねた。そこで会ったやせた16歳ぐらいの若い男は、観光で歩き疲れ、岩に腰掛けて休んでいる私の前に立ちはだかり話しかけてきた。何処から来たかから始まり、土産物はいらないかとしつこい。最初適当に答えていた私は目障りで、鬱陶しくなり、休む場所を10メートルほど移動した。するとしばらくしてまた私の前に立つのだ。余りのひつこさに辟易した私は彼に「何が望みですか(What do you want?)」と聞いた。すると彼の答えはしごく端的であった。彼の口から出た言葉は「マネー(Money!)」であった。私は「金は俺もほしい、自分で稼げ」と捨て台詞を吐きそこを立ち去る。人から金を恵んで貰おうとする根性が、私には受け入れがたかった。

 インド西部ラジャスタン州アジメールより、夜行列車に乗りデリーに向かう。まだ薄暗いオールドデリー駅に降り立つ。駅構内のレストランで軽い朝食を取りながら夜が明けるのを待つ。駅より歩いてイスラム寺院ジャーママスジット近くのホテルに向かう。道路脇には簡易ベットがずらりと並び人が寝ている。このベットより安い宿泊は道路に敷かれた布の上に寝ている。これは30年前の姿そのままであった。

 各州政府が運行しているバスや、国営の鉄道は古い国産車両が未だ使われていた。そしてバスや列車では、座席の争奪戦はすさまじい。到着したバスや列車の入口に乗客が群がり、人を押しのけ、力ずくで乗ろうとする。窓から荷物を入れたり、駅の切符売場でも平気で横から列に入り込む人がいる。
 インド人はかなり個性的で、自己主張が強い。彼等から「エクスキューズミー」や「ソーリー」などの言葉は聞かれない。ほとんどのインド人は他者に対する配慮が乏しい。それだけ生存競争が激しいのであろう。自己満足が何よりも最優先されている。

 バスや列車に乗っていると物もらいが回ってくる。老人から、小さな子供までがいる。中には体が不自由な人もいる。インド旅行では彼等に対しどのように接するか決断を迫られる。
 

 「30年経ってもインドは何等変化していない」と言うと語弊が有るであろう。ニューデリーには開通したばかりの地下鉄が走っていた。プラットホームは常に掃除されゴミも落ちていない。新しいステンレス製の車両は磨かれ輝いている。改札も自動化され不慣れな乗客で列が出来ている。改札を入ると金属探知と荷物検査が行われている。それは地上の有様と比べ明らかに別世界であった。

 銀行も小ぎれいになっていた。エアコンも入り、事務処理にコンピュータが利用されている。以前はたった4時間の営業時間で、1時間余りかかった外貨両替もスムーズになっていた。列車の切符もコンピュータで管理されている。乗客の住所、氏名、年齢、性別が登録される。切符に記載されている番号で予約の確認も可能であった。
 インターネットカフェの普及も大きな町では見られる。しかし接続速度にはかなりの地域差があった。外国人旅行者の集まる観光地はインターネットカフェを探す苦労はない。料金は時間当たり30ルピー前後であった。地方都市では日本語に対応されたコンピュータは少なく、ウエブメールの利用は難しい。

 大都市の中心地には高層ビルが建ち、小ぎれいな商店やレストランもできている。それらの施設を使う中流階層が増えると共に、底辺の人々もまた増加している。しかし町中における人間と動物の排泄物処理は、この国では未だ大きな社会問題である。強い異臭を放つ場所を避けて、観光客の女性がハンケチで鼻を押さえながら歩いていく。
 町中にゴミ箱が設置されていないわけではない。それらの箱には"Use me"などと書かれている。しかし彼等は気にしている様子は見られない。列車の窓や、バスの窓から躊躇なくゴミを捨てる。インド人が愛好する「パン(Paan)」と呼ばれる噛みたばこも、噛みながら容赦なく赤い唾を吐く。

 インド旅行は環境面からかなりリスクが高い。道路上には牛、豚、山羊などの糞が散乱する。それを車が踏みつける。インドの太陽がそれらを乾燥させる。そして風が吹き周囲に飛び散る。
 食堂、レストランでの食器の洗浄に洗剤は使われていない。ただの水洗いの場合が多い。そのためか、インド人はコップで水を飲む場合、口を直接触れず大きく口を開け流し込む。それは肝炎などの病気を恐れての仕草であろう。そして食堂で出される食物や水にも問題はありそうだ。ラッシー(ヨーグルト)やアイスクリームなどの保存状況も気になる。私を含め体調を崩した旅行者に何人も会った。

 インドにおけるカースト制度もインド社会を大きく規制している。この身分制度は大きく分けると、司祭者(バラモン)、王族(クシャトリア)、庶民(バイシャ)、先住民(シュードラ)の4階級に区別される。さらにその下に不可触民(アンタッチャブル、ハリジャン)が存在する。この制度は約3000年前に、アーリア人が先住民を支配するために始めたと言われる。
 今後さらなる発展を目指すには、特権階級の利益を守るカースト制度の変革、社会的インフラの整備、経済的改善なくして、インド人の習慣や内面が変わり得るとは思えない。しかしそれはインド的な物を失うことに通じるであろう。

 「インドは30年前とちっとも変わっていない」と言う私に、「インドは急激ではなくゆっくりと変わっていく」とインド人の青年から答えが返ってきた。

メトロ、New Delhi
長距離バス、Ahmedabad
 
噛みたばこ屋、Pushkar
露店
 
結婚パレード、Ajimer
牛糞と老婆、Sanchi

インド人は旅行好き

 観光旅行の始まりは聖地への巡礼旅行であろう。毎日の稼ぎをこつこつ貯めて、一生に一度、念願の聖地をお参りする。そして巡礼中は日常生活から離れ、羽目を外すことも許されていたであろう。日本においても伊勢参り、熊野詣で、四国巡礼、大山詣で、冨士山詣でなどが行われていた。

 インドでは今でも多くの人が、聖地を訪ねる巡礼旅行をしている。彼等の旅行は家族、一族郎党の場合が多い。夫婦に子供、それに夫婦の両親も一緒となる。一家族6人から8人、大きな荷物を持ち、鉄道駅の待合室を占領している。待合室も一等車用、2等車寝台用に分かれている。シャワー付きの待合室もあった。

 待合室で列車を待っていると、外国人である私に興味を持ち、話しかけて来る人も多い。私も時間つぶしに良いので、いろいろ話すことにしている。彼等との会話から、インド中流階級の生活が垣間見ることが出来る。
 会話は「何処の国ですか」から始まる。
 私は「何処から来たと思いますか」と聞き返す。
 相手の返事は、中国人、ネパール人、マレーシア人、タイ人、韓国人(日本人より旅行者が多い)、日本人かなどと言われる。そして日本について知っていることを聞く。

 大学などの試験休みには、学生達もグループを作り観光旅行や研修旅行をしている。一人旅をしていると、このようなグループ旅行者と出会うことになる。そこで気楽に会話を持つ。

 何処の国でも今日食べるお金に困っている人が、旅行をしているわけではない。旅行は生活に余裕のある人々が行う贅沢な遊びだ。現在では列車だけでなく、自家用車や、観光バスをチャータし、長期間の巡礼旅行に出かけている。
 インドには州政府経営のホテルが大きな町や、観光地にある。これらのホテルは公務員の出張用として作られている。ホテルの敷地が広く、設備も比較的に良いので私もよく利用することにした。料金も一部を除き標準的な価格である。

 インドの各州では長距離バスなどは州営である。そして州政府が観光ツアーも行っている。タミール・ナドゥ観光局では半日のツアーから、州内の聖地や観光地を回る、14日間のツアーまでがパンフレットに記載されている。日本では海外旅行も5日から8日位が一般的だ。2週間は休みの取りにくい日本ではあり得ない日程だ。それだけインドの人々は豊かなのであろう。

 ラメスワラムのヒンズー寺院内には22カ所の井戸がある。巡礼者は各井戸の聖水を浴びる。パリタナのジャイナ寺院へは、尾根づたいに3000段の石段を登る。登るだけで2時間はかかる。夜が明ける前から信者達は列をなし登り始める。足の悪い人や子供はかごに乗り山を登る。

 インドの最南端コモリン岬はインド洋、ベンガル湾、アラビア海が交じ合う有名な聖地だ。岬の沖合にはインド人の聖人とされる、ビベカナンダ(Swami Vivekananda)がここの岩で瞑想したという岩礁がある。その跡には寺院と、大きな立像が建てられている。連絡船に乗り小島に渡る。ほとんどがインド人観光客で外国人は少なかった。
 このような観光地では土産物屋が並び、写真屋が記念写真を撮っている。

家族旅行、Pushkar
若者達、New Delhi
 
城壁都市、Jaisalmer
土産物屋、Kanya Kumari
 
ジャイナ寺院、Palitana
王宮広場、Mysore

素晴らしきインド

 今回の旅行の準備として、銀座にあるインド政府観光局に、資料を集めに訪ねた。観光局の場所は以前と変わっていた。事務所には地図や日本語の案内パンフレットが置かれている。日本人が好む仏教遺跡や、リゾート地の物が揃っている。これらの観光パンフレットは、本国では手に入らない物ばかりだ。「インド観光案内」「インド全図」「インド仏跡巡りと世界遺産」など、各観光地の市内地図も置かれている。現地では粗末な観光地図も有料の場合がある。

 インド観光局の標語は"Incredible India"である。日本語の意味は「素晴らしきインド」であろう。しかしこれをうがって訳せば「信じがたきインド」「驚くべきインド」となる。インド観光ハイライトには「インドは豊かな文化を持ち、精神を高めて肉体を活気づけ、心の若返りをもたらしてくれる国です」「インドは心の源です」と書かれている。
 インドにはユネスコ世界遺産に登録されている遺跡や、自然が26ヶ所ある。そしてインドは世界的に観光地として人気が高いらしい。しかし現状では旅行環境が良いとはけして言えない。人口の増加に対応し切れていない公共交通機関、バス、鉄道の混雑状況がある。そのため外国人旅行者には、列車の特別枠が設定されている。

 そもそもインドにおける標準的な長距離バスは、扇風機もない横5人掛けの窮屈なバスだ。バスの料金は当然利用される車両により違う。一番高いのは外国製のボルボ製バス、国産エアコン付きバス、横4人掛けバス、そして横5人掛けのバスだ。長距離夜行区間には寝台バスも走っている。車内は狭く、荷物の多い旅行者は置き場所に苦労することになる。
 大都市間には程度の良いエアコン、リクライニングシート付きのバスも走っている。しかしそれ以外は横5人掛けバスが一般的だ。道路状況によりかかる時間も大きく違う。やはり幹線道路以外は道路事情は良くない。振動も激しく、後部座席に陣取るとかなり疲れることになる。長距離を移動する場合、早朝に出発し、到着は夕刻となる。

 バンガロール(Bangalore)‐ハイデラバード(hyderabad)間は574kmで12時間余りかかる。料金はエアコン付きの国産バスで491ルピー(約1300円)であった。
 タミールナドゥ州南部、ラメスワラム(Rameswaram)‐カンヤクマリ(Kanya Kumari)間には直通バスが走っている。距離は約300km、朝7時過ぎに出発し、途中の町や村を迂回する田舎道を走る。点在する町や村には教会が建ち、カンヤクマリ近くには100基以上の風力発電の風車が回る。到着は夕方の6時過ぎとなった。11時間余りの長いバス旅行である。料金は90ルピーであった。
 
 窮屈な座席に縛られるバスよりも列車の方が幾分快適だ。木製座席の2等車はバス料金よりも安い。急行列車を利用すれば時間はバスと余り変わらない。インドは総延長5万8500kmを誇る鉄道王国だ。広軌の路線、狭軌の登山鉄道などもある。一部観光用に蒸気機関車も走っている。しかし座席の予約を取るのは容易ではない。

 ニューデリーからコルカタ(カルカッタ)までの距離は1440km余りある。一番速い列車は17時間30分で結ぶ。鉄道料金はエアコン付き三段ベットの寝台車で1500ルピーであった。二段寝台は2470ルピー、エアコン付き1等車では4270ルピーとかなり高額となる。
 この列車は食事付きであることを乗車してから知る。食事の内容は発車してから直ぐに、アフタヌーンティーから始まり、菜食、肉食が選べる夕食、アイスクリームのデザート、翌朝はモーニングティー、そしてパンとオムレツの朝食が付いていた。
 この間の正規航空運賃もかなり高い。外国人料金は250米国ドルであった。現在は航空会社が自由化され、早割などの安い料金の選択も可能になっている。

 ユネスコ世界遺産に登録されている遺跡、寺院、博物館などは外国人料金が適用されている。一番高いのはタージマハールで750ルピー(15米国ドル)その他の遺跡は100ルピー(2米国ドル)から250ルピー(5米国ドル)であった。その他の博物館や観光地はインド人と同額で3から10ルピーぐらいである。
 インドの観光地で他の多くの国と違うところは、カメラやビデオの持ち込み料が必要なことだ。遺跡、博物館、公園、動物園などで徴収される。カメラ料金は10ルピーから50ルピー位であった。しかしこれにはかなり戸惑った。

 インドの宿泊施設はタイなどと比べ高く感じた。安宿の一番安い部屋で150ルピー位からで、エアコン付きの部屋は400ルピー以上する。中級ホテルでも安い部屋はエアコンなしで500ルピー前後、エアコン付きの部屋は800ルピー以上する。そしてインドの安宿では熱いシャワーの供給も望みがたい。また安宿には南京虫も生息している。 

 インドの食堂やレストランは菜食と、肉食に分かれている。一般的には菜食の方が多いようだ。食事代もそれなりにかかる。ミールス(Meals)やターリー(Thali)などの定食を食べるのが一番経済的だ。菜食で50ルピー位から、肉食で80ルピー位する。
 ビールも税金の関係でかなり高い。食堂では一本80ルピー以上はしている。ポンディチェリ(Pondicherry)など特別な地域は安く、禁酒の州も存在する。インドではアルコール度の違う2種類のビールが売られている。

 インドを暑い季節に旅行した場合、エアコン完備のホテルに泊まり、エアコン完備のバスや列車に乗ろうとすると、かなりの費用が必要となる。これは電気料金や設備代が高いのがその一因であるらしい。
 インド政府観光局発行の案内書によると、「一流ホテルに泊まる旅行は一日約3万円、安く上げようとすれば一日7500円位、学生や、ヒッチハイカーにはインド式ホテルで一泊500円位」と書かれている。

 インド旅行を底辺の人々と同じように生活すれば安く済ませることも可能であろう。しかし乗り物の快適さ、泊まる部屋の綺麗さ、食べ物の清潔さを求めれば、それなりの費用が必要となる。各旅行施設は貧富の格差が大きい故に、各階層に合わせた料金体系になっている。自分がどの階級に合わせた旅行をするかにより費用は大きく違ってくる。インドはそれだけ選択幅が広い国とも言える。
 両替レートは1米国ドル=43.4ルピー(約2.7円)であった。

三段寝台車
登山電車、Ooty
 
カタカリ、Cochin
Agastyatirtha Tank, Badami
 
貧乏人のタージマハール、Aurangabad
ハジアリモスク、Mumbai

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