貧乏旅行の話

17.ヒッチハイクで旅する

ヒッチハイクで旅する

レンタカーを借りる

騙されかけた話

ヒッチハイクで旅する

 2003年7月下旬、山陰丹後半島の西側に位置する網野町を久美浜町に向かって車で走っていると、高校生位の若い女性二人組がヒッチハイクをしているのを見つけた。二人の格好と持ち物を観察すると軽装で荷物は小さなバックと、ウサギの縫いぐるみらしき物を持っている。その姿で何処へ行こうとしているのか私には不可解であった。私はブレーキを掛けて止まりかけたがそのまま走り続けることにした。理由は私の車の座席が荷物でいっぱいなのと、少女を車に乗せていざこざに巻き込まれることを嫌ったからだ。
 しかし二人のヒッチハイクの手法はかなり慣れた様子に見えた。走ってくる車を見ながら自然に左手の親指を上げていた。それにしても珍しい光景だった。北海道などの観光地ではいざ知らず、山陰の小さな町での出来事だった。

 ヒッチハイクは日本では余り見かけない光景だと私は思っていた。しかしインターネットで検索するとかなりの件数が出てくる。ヒッチハイクを旅の手段としている若者が日本にもいるようだ。そして日本はヒッチハイクのしやすい国との話も聞く。
 外国でもヒッチハイクのしやすい国としにくい国がある。また文化として受け入れている国と、そうでない所があるようだ。自家用車が少ない国は当然難しく、治安の悪い国もまた難しい。やさしい国としてドイツやイギリスが有名であった。
 乗せてくれる人は単なる親切心、異邦人に興味を感じる。一時の話し相手などそれなりの理由はありそうだ。止まってくれる車は一人で運転している場合が多く、同乗者がいても一人まででそれより多いと乗せては貰えない。

 一般的にヒッチハイクをする理由は交通費の節約だ。ヨーロッパでは日本と比べ高い鉄道運賃を節約することは貧乏旅行者には大きく、持ち金を減らさず滞在できる期間を延長できる。二次的には乗せてくれた人との触れ合いがある。さらに気が合うとコーヒーをご馳走してくれたり、降りるときにお金をくれた人もいる。
 ヒッチハイクは立つ場所が肝心で、自分が何処へ行きたいのか行き先表示も必要だ。成功率は天候にも左右される。雨や雪が降っていれば難しく、曜日も大きく関係する。日曜日は難しい。国境通過もかなり難しい。開始する時間帯も考慮する必要がある。

 ヨーロパの地方都市は日本とは違い、それぞれの町が畑や森の間に点在している。そこで町外れに立てば迷わずその道路が繋がっている次の町に行ける容易さがある。高速道路網が発達しているのも大きい。大きな都市の中心部ではやはり難しく、バスや電車にて郊外へ出る必要がある。
 目的地を書いたボードを持ち町外れの道路脇や高速道路の入口に立つ、これが一般的なヒッチハイクの方法だ。夏休みなどではかなりの若者がヒッチハイクで旅をしていた。

 乗せてくれるのはありがたいが短い距離の場合もある。降ろされた場所が鉄道駅から遠いところで有れば、列車を使う選択も失う可能性がある。不便なところで降ろされると次の車を見つけるのが難しい。良い場所に歩いて移動する必要もある。
 高速道路のインターチェンジなどで降ろされることもある。行く方向がここで大きく分かれるからだ。高速道路内で車を止めるのは危険でかなり難しい。

 ヒッチハイクは相手次第だ。予定は立てられない。そして道路脇で長時間待つ覚悟も必要だ。距離の短い移動の場合は電車を使った方が効率がよい場合もありそうだ。総合的な状況判断が必要となる。半日待って車に乗せて貰えず、駅へ行き列車に乗ったことも何度となくある。時間に余裕がないと出来ない旅行方法だ。

ドイツ
 ドイツはヒッチハイクのしやすい国としてかなり有名である。1973年11月、私はヨーロッパに於ける初めてのヒッチハイクの旅をドイツの南、スイスとの国境であるボーデン湖のほとりの町"FRIEDRICHSHAFEN"から始めた。ここから北100kmにある"ULM"へ向かう。一般道を2台の車の乗り継ぎで、2時間余りで到着できた。出だしとしては順調だった。

 その後も順調に行くのだが。フランクフルトの北にあるWISBADENで天候が悪くなりヒッチハイクを諦める。その年の11月下旬から12月上旬にかけてヨーロッパを寒波が襲い雪となった。日本のように沢山積もったわけではないが寒い日々が続いた。途端にヒッチハイクがやりづらく成った。またドイツ北部は町も大きく隣り合っているのでヒッチハイクは難しかった。素直に諦め移動は主に鉄道を利用した。

 FRIEDRICHSHAFEN -(106km, 2 cars)- ULM -(70km, 2 cars)- AUGSBURG -(68km, 1 car)- MUNCHEN -(140km, 2 cars)- REGENSBURG -(152km, 1 car)- NURNBERG -(42km, 1 car)- ANSBACH -(km, 2 cars)- ROTHENBURG -(km, 4 cars)- WURZBURG -(72km, 1 car)- ASCHEFFENBURG -(27km, 1 car)- FRANKFURT -(35km, 4 cars)- WISBADEN

 年が明けた1月ルクセンブルクよりドイツに再入国する。古代ローマ遺跡のある"TRIER"よりモーゼル川沿いに"KOBLENZ"を目指す。しかし田舎道で車の数も少なくかなり難しかった。予定の立てられないヒッチハイクより、モペット(自転車と同等な扱いの国もある)を買って旅行したらどうかとの提案もあった。

 TRIER -(58km,6 cars)- BERNKASTEL -(*km,4 cars)- KOBLENZ

ベルギー&ルクセンブルグ
 クリスマス休暇の時期をドイツよりベルギー東部に入り過ごすことにした。この辺りは森林の続くアルデンヌ高原と呼ばれる丘陵地帯だ。小さな町が森の中に点在し、人口密度も低く、鉄道が繋がっていない町もある。現地の若者も歩くか、ヒッチハイクで移動していた。

 "SPA"から"HOUFFALIZE"までは何の問題もなくスムースに移動できた。しかし"HOUFFALIZE"からルクセンブルグの"CLERVAUX"への道は幹線道路を避け、近道を取ったためヒッチハイクは難しかった。25km余りの距離をほとんど歩くことになる。車も滅多に通らない田舎道だ。
 全行程を歩いても5時間余りだ。諦めて歩くことにする。これも一つの旅の方法だ。しかし夕暮れが迫りトボトボと歩いていると車が止まってくれた。有り難く"CLERVAUX"まで乗せて貰うことにした。

 SPA -(19km,1 car)- MALMEDY -(28km,2 cars)- VIELSALM -(31km,2 cars)- HOUFFALIZE -(25km,walk+3 cars)- CLERVAUX -(72km,train+1 car)- HOLLENFELS -(17km,walk+1 car)- LUXEMBOURG

フランス
・ベルギーからフランス
 2台の車の乗り継ぎで"BRUGGE"よりフランスの国境まで行く。遮断機があり国境然としたところだ。鉄道などで通過する国境と違いチェックも厳しい。荷物検査をした後にパスポートにスタンプが押される。
 国境を通過してくる車を待つ。しかし車の通行は少ない。しかたなく町まで歩く。しかしその町でも捕まらない。さらに次の町まで1kmほど歩く。ここでやっと拾われ"LILLE"へ入る。

 次の日はパリへ向かう。高速道路の入口へ行く。先客が8人ほどいた。車を待っているとパトカーが来てこの場所でのヒッチハイクは駄目だと言う。ベルギー人の少年と私は町に戻り再度ヒッチハイクを試みる。難なく拾われ私達二人を乗せてくれた車は高速道路を100kmほどの走ったインターチェンジで止まる。その車の行き先はパリとは方向が違うのだ。高速道路内で次の車を待つ。犬を助手席に乗せたバンに拾われパリ市内へ入る。地図で自分のいる位置を確認し歩き出す。

 BRUGGE -(*km,walk+3 cars)- LILLE -(224km,2 cars)- PARIS

・フランスからスペイン
 4台の車を乗り継ぎ、最後に老夫婦の運転する車に拾われスペインへ入国する。検査官も後部座席にアジア人が乗っているので此方を見ている。窓からパスポートを示し無事通過した。この老夫婦は"SAN SEBASTIAN"より先に行くらしい。自動車専用道を走り町外れのインターで降ろされる。
 しかしこういう入国の仕方は問題があった。現地通貨を持っていないためバスにも乗れないのだ。駅への道を聞き歩くことにする。"SAN SEBASTIAN"はかなり有名なリゾートだ。しかし2月下旬で季節外れのため観光客は少なかった。

 TOURS -(329km,2 cars)- BORDEAUX -(224km,5 cars)- SAN SEBASTIAN

・スペインからフランス
 スペインはヒッチハイクが難しいとの情報から、3000kmの鉄道キップを購入しこれにて各都市を廻る。しかし"BARCELONA"でキップを使い切った。仕方なくヒッチハイクでフランスの"CARCASSONNE"を目指す。地下鉄に乗り幹線道路まで行く。道路脇で待っていると郵便配達夫が高速道路の入口を教えてくれる。4台の車の乗り継ぎでフランス国境近くまで行く。雨の降る中次の車を待つ。男性2人が乗ったルノーに拾われ高山には雪の残るピレネー山脈を越える。さらに渓谷沿いの道を下り夕刻の"CARCASSONNE"に入る。

 BARCELONA -(340km,5 cars)- CARCASSONNE -(228km,2 cars)- ARLES -(91km,2 cars)- MARSEILLE -(*km,2 cars)- NICE

・フランスからイタリア
 二台の車の乗り継ぎでニースよりモナコ王国に入る。貧素な洋服とザックを背負ってカジノに入るわけにも行かず、観光することもなく素通りする。歩きながらヒッチしやすい場所を探すが見つからず、3時間余りイタリアに向かって歩くことになる。国境の町"MENTONE"にある高速道路入口で気を取り直し再度試みるが車は通らず、30分ほどで諦め汽車に乗ることにする。 
 このヒッチハイクがヨーロッパ旅行の最後となった。イタリア国内は治安のことも考え鉄道を利用する。

 NICE -(201km,2 cars+walk+train)- GENOVA

久美浜町の観光案内板
CARCASSONNE
 
MARSEILLE
 

レンタカーを借りる

 以前からヨーロッパの田舎町を車にて訪ねてみたいと思っていた。南ドイツや、南フランスの畑の中や山中に点在する古い田舎町を訪ね、石畳の道をゆっくりと走り、城壁に囲まれた町並みを味わう。町の中央にある広場を訪ね、教会や噴水を見る。そして次の町へ高速道路を使わず、旧道を景色を楽しみながら行く。
 その町が観光案内書に記載されていなくとも特徴のある村に寄り道し、異邦人である自分を楽しむ。この様な気ままな旅は車だからできる旅行だ。それも自分が運転していて出来ることだ。

 その様なドライブ旅行をするチャンスが巡ってきた。2000年10月、3週間ほどスペインを二人でレンタカーを借りて旅行する機会があった。いつもの貧乏旅行と違い旅行鞄を下げての移動になるためレンタカーを借りることにした。今回は高級レストランでの食事も考え、背広とネクタイと白いワイシャツも用意した。
 旅の交通手段としてやはり車は便利だ。鉄道やバスなどが走っていれば、町や村に行くのに何等問題はない。しかし郊外の観光地や自然を楽しもうとするとやはり自由に動ける車が良い。

 日本で予約したレンタカーはシトローレンのサクソー、1.1リットルの小型車であった。しかも最安値の車種である。ところがマドリッドのスペイン広場近くにあるレンタカー会社に行くと予約した車は無いと言う。予約書類を示し抗議した。すると一ランク上の車オペルコルサ16V、1.2リットルを、予約金額で借りることが出来た。
 15日間の使用でCDW、TP、税込み70000ペセタ(約41000円)と補償金20000ペセタ(約12000円)であった。この補償金は車を返したときに返金手続きが取られた。走行距離は2500km余りであった。(¥1=0.58ペセタ)

 レンタカーを一日3000円弱と安い金額で借りることができた。日本では同程度の車が保険料を含め、9000円前後するので3倍以上の違いがある。西欧のレンタカーは料金も一日などの短期間と一週間かそれ以上の料金設定がある。日本と比べ休暇などで長期に借りるのが一般的のようだ。
 ヨーロパは一般的にオートマチック車が少なく、料金も高い。西洋人の合理主義からか燃費が良く、安いマニアル車が一般的に利用されているようだ。
 レンタカーの保険はLP:自動車損害賠償保険、LDW/CDW:車両損害補償制度、TP:盗難保険、PAI:搭乗者障害保険、PEC:携行品保険等がある。その他に免責額や税金もある。借りるときには何処まで含まれているか確認が必要だ。

 レンタカーを借りるには国際運転免許書と日本の免許書の携帯を要求される。しかし一般の外国人が日本語を読めるとも思えない。運転免許書であるかも理解不能と思われる。しかしクレジットカードは必須のようだ。支払いはクレジットカードで行われる。
 今回の予約はインターネットで各レンタカー会社の基本料金を調べ、日本にある代理店で金額を再確認した。会社によるバラ付きも大きく、結局は日本の代理店が示した金額が一番安くここに決める。

 スペインでの道路のスピード制限は一般道は100km/h、高速道路は120km/hである。町中にはいると一般道でのスピードは30km/h制限などに変わる。信号はほとんどない。直線の一車線だ。道路への流入は斜め方向からで、反対車線に入る場合には一旦道路を横切ることになる。この様な道路方式は日本にはない。幹線を速いスピードで走っている車に配慮した構造になっている。
 道路標識も基本的には同じような物だ。一方通行、交差点での優先権、車線変更、追い越し規制等日本と同じで問題はない。行き先表示も解りやすい。しかし目的地へ行くには途中の町名も頭に入れておく必要がある。

 道路の方式もその国の文化と事情があるようだ。南フランスでは往復三車線の道路があった。交互に真ん中の一車線を追い越しに使う方式は日本でも峠越えの道でよく見られる。しかし南フランスの道路は真ん中が追い越し車線になっている。まるでロシアンルーレットだ。どちらかが先に避けないと正面衝突となる。
 イタリアでは二車線しかないのに追い越しをかけた車が真ん中を当然のように走り通す。両側の車も事故を避けるため速度を下げ、片側の車輪を測道に落とす。その様な暗黙の了解が出来ているのだ。
 イタリア滞在時に利用した車はイギリス車で右ハンドルであった。助手席の太ったおじさんが追い越し時に対向車の有無を教えてくれた。道路の通行方式に合わない運転席は不便で危険だ。日本で英国製の左ハンドル車モーリスミニクーパを見たイギリス人が驚いていた。

 レンタカーを借りて旅行している人が少ないのか、観光シーズンを外れていたのか不明だが、個人旅行者は少なかった。途中の村や道路脇などにあるレストランでの食事は現地の人と一緒であった。近くの会社の人々やトラックの運転手などだ。
 昼の食事は午後2時から始まる。それぞれのレストランには定食があるのでこれを食べる。一般的には肉か、魚の主菜にスープ、デザート、パン、一本のワインか、一リットルのミネラル水一本が含まれている。これで料金はサービス料と税金を含み1000ペセタ(約600円)から1500ペセタ余りであった。これらを1時間以上をかけてゆっくりと食べる。ラテン民族の食生活の豊かさを知ることになる。

 宿泊場所は町に入り適当な場所に車を駐車し、歩いてめぼしいホテルを探す。地下駐車場付きの安宿もあるので其処に決める。駐車料金が有料なところと無料なところがある。駐車場を持たない安宿では公共駐車場などを利用する。町中の観光に車は必要ない。徒歩で十分だ。歩き疲れたらカフェで休み、帰りはバスなどに乗ればよい。二泊したグラナダ、コルドバなどの町では丸一日車を使わなかったこともある。

 最後に一番注意したいのはタイヤ固定ネジの袋ナットのサイズが違うことだ。実際に取り付けられている物とレンタカーに搭載されているレンチが合わないのだ。パンクでスペアタイヤに交換したいと思っても換えられない、これは問題だ。
 "El-Escorial"で縁石にタイヤホイールをぶつけ破断した老人がいた。レンチが合わず通りかかった私が助けを求められた。私の車からレンチを出し合わせてみたが合わなかった。自分の車のナットにも合わず深刻さを理解する。丁度パトカーが通りその人は助けを求めていた。

 訪ねる国に於ける道路上の犯罪例を知っておくこともまた重要なことだ。道路を走る車をパンクさせ、助ける振りをして車内の金品を盗む。銃を持った高速道路上の強盗もいるようだ。

走行ルート(約2500km)
 MADRID - El Escorial - AVILA - SEGOVIA - VALLADOLID - LEON - Astorga - ZAMORA - SALAMANKA -Cuacos de yuste - Trujillo - CACERES - Merida - Zafra - CORDOBA - Carmona - SEVILLA - Osuna - GRANADA - TOLEDO - Aranjuez - Chin chon - MADRID

城壁、AVILA
パラドール、LEON
 
レンタカーとパラドール、Carmona
ローマ矯、CORDOBA

騙されかけた話

 海外を旅行中に初めて会った見ず知らずの人間を無条件で信用する人は先ずいない。しかし見知らぬ人でも二人の間に金銭が介在しなければ別に問題にはならない。旅先で知り会った人と世間話をすることは旅の楽しみの一つでもあり、地元の人であれば最新の情報や昔話等、ガイドブックに載っていないことを教えてくれたりする。この出逢いが一つの旅の大きな思い出に成ったりする。
 知らない人に出会った場所が田舎であれば問題もより少なく、大都会であれば十分注意が必要だ。やはり何処の国でも田舎では世間の目がある。他人に危害を加える人間は村八分にされる可能性がある。それでは生きていけなくなるので自重する。しかし都会は雑多な人間がいて監視されることも少ない。

 それでは何回か会ったことがある人間はどうだろう。これは少々難しい。外国人旅行者と一緒に行動を共にしていても相手が何を考えているか解りにくい。人種や文化が違えば尚更だ。しかし人間は面白い。初めて会って数時間後に深い関係に至る男女もいる。この場合はフィーリングが合うと言うことか、好奇心か、探求心か、はたまた単なる欲望か。
 何処の国においても人を信用するにはある条件が必要となる。一般的には身元が明らかなことや、住居が明かなこと。安定した職業を持っていること。家庭を持っていること等であろうか。

 その二十歳過ぎの小柄なインド人の男に私が初めて会ったのは、ドイツ北部デュセルドルフの郊外にあるラッティンゲンのユースホステルであった。私は10日間ほどこのユースホステルに宿泊し日本からの送金を待っていた。最初私はデュセルドルフ市内のユースホステルに一週間ほど泊まっていた。ここが団体客で満員となり追い出され仕方なく郊外にあるユースホステルに移ることになった。
 デュセルドルフより路面電車に20分ほど乗り終点で下車した後、林の中を15分ほど歩いたところに、そのユースホステルはあった。不便なだけに宿泊料金も町の半額に近く4マルク(約450円)と安い。ここにも冬休みでドイツ人の子供達の団体が宿泊していた。

 個人旅行者は2階の屋根裏部屋にまとめられていた。内訳は3人のドイツ人、1人のフランス人、2人のインド人と私であった。
 このインド人はかなり長くこのユースホステルに宿泊しているらしかった。自炊室でチキンカレーを作ってホステルの女主人に試食させていたこともある。
 ある夜ドイツ人とそのインド人が話をしていて、第二次世界大戦の話しに及んだ。ドイツ人は先の戦争犯罪を批判されているわけだが、この戦争にインドは連合軍に協力し、この男の立場も当然連合軍サイドであった。しかしヨーロッパの歴史を遡ると、ナポレオンの遠征などもあり、長い混沌とした中世がある。
 

 このインド人とはこのユースホステルで何の問題もなく別れるのだが、8ヶ月後の1974年9月、インドのニューデリーの街角にて偶然再会することになる。この男は英国航空事務所前にいて観光客を目当てに航空券販売の仲介をしていた。その当時この手のいかがわしい商売をする人物が、観光案内所やそれぞれの航空会社の前に立っていた。この商売は言葉巧みに顧客を航空会社に紹介し販売手数料を得るものであった。

 偶然の再会で私達は彼の事務所へ行く。其処は事務所と言っても間借りしているようであった。責任者らしき頭に水色のターバンを巻いたシーク教徒の男がおり、我々がアルコールを飲むのを嫌っていた。私達は部屋の隅で再会を祝いビールで乾杯し、ウイスキーを飲み、夕食を一緒に取り、父親が銀行員という彼の家に行く。その後映画を見に行き、その日は彼の家の2階屋上にある簡易ベッドで星を見ながら寝ることになる。

 この男は私がネパールに行く計画であると知ると、雨期で道路が寸断されていて通行不能であると話した。さらに近くの宝石店を照会し、これを日本に持っていけば高く売れると言葉巧みに説明する。無価値な宝石を買わせ手数料を得ようとしていた。
 
 男が示したエジプト航空の条件はニューデリー−バンコク−香港−東京の片道航空券で、各中継地に1週間の無料宿泊が可能との話であった。私はこの魅力的な条件を受け入れ購入することを最終的に了解する。
 最近の格安航空券と違い昔の航空券は高額で、IATAに基づく正規料金で販売されていた。航空会社の責任で航空機が遅れた場合や乗り継ぎの場合には、ホテルと食事が無料にて提供されるのが一般的であった。

 翌日の朝二人でホテル内にあるエジプト航空の事務所に行きニューデリー−東京間の航空券の詳細を確認する。料金は562米ドル(約17万円)、この時点まで私は航空券を買うことを決めていた。
 私は銀行に行きエジプト航空の口座に入金する。その時の入金証明書を持ち事務所に戻る。そして航空券発券時になり彼の示した条件と話が違うことを二人の会話から知ることになる。一般的にインド人は英語で会話をすることが多い。これが現地語で有れば私には理解できず、その時点で騙されていることが解らなかったであろう。不信を感じた私は男を無視し直接支配人に確認する。エジプト航空の示した条件はボンベイでの宿泊のみであることが解る。

 このインド人を信用できなくなった私は発券を取りやめ、その場を辞し彼の事務所へ戻る。私が不信感を持ったことを知ると、彼は最終的に400ルピーと55米ドルを戻すとの新たな条件を示した。しかし信用できないことが解った私はその条件を拒否する。冷静に考えれば彼がお金を戻す可能性も疑問であった。
 彼等の商売は有りもしない条件で外国人観光客を集め、航空券を購入させる詐欺行為であることが明白となる。その反面航空会社も彼等に手数料を支払っているのも明らかであった。商売となれば言葉巧みに人を信用させ、自分の利益のために誰でも騙すインド人の強かさをここで知ることになる。

 翌日の朝、銀行を訪ね事情を話し振り込んだお金が戻せることを確認する。さらにエジプト航空に行き購入する意志のないことを伝える。ところが私が購入しないと解ると支配人は20パーセント(約112ドル)余りの値引きを示した。しかし値引き分は現地通貨ルピー(約950ルピー)にて戻すという。ここで私は大きく迷うが、このルピーはインド以外では使えないことを考えると、この条件を飲むわけには行かなかった。  

 翌日、再度エジプト航空を訪ね、購入する意志のないことを支配人に伝える。銀行当てに返金手続きに同意する手紙を書いて貰う。それを持ち銀行に行き返金を要請する。ところが銀行内で書類があちこちと渡り、さらに戻す方法がチェックか現金かで揉めることになる。貧乏旅行には制約のあるトラベラーズチェックを拒否し、最終的には547米ドルの現金が私に戻されることになった。この時点で15米ドルの為替損失が発生していた。

 以前会ったことがあると言うだけで男を信用したがために、結局は30米ドル(約9000円)余りの金銭的損失と多くの時間を取られることになった。しかしこれで旅が続けられることになる。二日後私はニューデリーを後にしジャイプールに向かった。
 その後ネパールを旅行した後、インドに再入国する。さらにカルカッタよりタイに渡り、今は無きエア・サイアム機で香港を経て、日本に帰り着いたのは2ヶ月後となる。

Jama Masjid
Red Fort

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