貧乏旅行の話

10.日本軍の亡霊

カンボジア国境の町ポイペト

欧米人はアジアを目指す

日本軍の亡霊

有名だった日本人の英会話下手

カンボジア国境の町ポイペト

 タイからカンボジアへ陸路で入るには、タイの東部にある町"ARANYA PRATHET"からが一般的だ。首都バンコクからこの町までは約250km、直通バスで4時間余り、料金は164バーツ(約500円)である。鉄道では普通列車しかなく5時間半余りかかるが、三等車で48バーツ(約150円)と驚くほど安い。以前は"PHNOM PENH"まで通じていた鉄道も、カンボジアの内戦以降運行は停止されている。そしてカンボジア内戦時には難民でごった返したタイ−カンボジア国境周辺も、現在は落ち着いてきているかに見える。数年前にはバスターミナル脇に高級ホテル"ARAN MERMAID HOTEL"も出来、カンボジアを目指すツアー観光客で賑わっている。

 "ARANYA PRATHET"の町外れにあるバスターミナルより、一本道をトゥクトゥク(三輪タクシー)にて5km程離れた国境へ早朝に向かう。国境近くになるとトゥクトゥクに向かって走ってくる人々がいる。一部の人間はトゥクトゥクの後ろに飛び乗ったりする。国境は8時前に開くことになっているが、カンボジアからタイに向かって人の流れが既に出来ている。その人の渦の中にトゥクトゥクは止まる。トゥクトゥクを追いかけたり後ろに乗ってきた若者達が、英語で出国事務所の方向をあっちだと教えてくれる。この連中は旅行者の荷物などを運び、手間賃を得ようとしているカンボジア人のようだ。
 何も持たない人や大きな荷物を担いだり、屋台を引いて歩いてくる人々を避けながら線路を渡り、タイの出国事務所へ向かう。カンボジア人は身分証明書を示すだけで国境を越えている。事務所で手続きしているのは外国人だけだ。

 タイ−カンボジアの国境は細い一本の川である。ここに小さな橋が架かっている。橋の中央は車道で両側は柵に仕切られた歩道だ。橋の手前の両側にタイ王国の出入国管理事務所がある。左側が出国、右側が入国審査手続きを行っている。手続きを終え歩道を歩いていくと、物乞いをしている人々が等間隔に橋の上に並んで座っている。
 橋を渡った右側の小さな小屋がカンボジアビザの発給事務所だ。ここで一ヶ月間の観光ビザがその場で発給される。しかし料金が不明瞭なようだ。旅行案内書などには20米国ドル(約2700円)と書かれているが、今回私が請求された金額は1000タイバーツ(約3200円)であった。この事務所の廻りには身分不祥な人々がたむろしており、ビザ申請書の記入を手伝ったりしている。この人達は事務官とは思えず、ここで記入方法の解らぬ日本人が倍の料金を請求された話しも聞く。

 ビザは数分で発給される。ビザを得て先に進むと入国審査事務所がある。列に並んで自分の番を待ちつつ手続きを見ていると、パスポートに100バーツ札を挟んで係官に渡している人がいる。明らかに賄賂なのだが、こうも堂々と行われているのは驚きだ。若い男性の係官は何のためらいもなくパスポートと金を受け取る。別に金を渡さなくても事務手続きに支障はないと思うが、日付や滞在期間などは確認した方が良いであろう。出国時に文句を付けられる可能性もあり得る。

 普通外国に入国した場合には現地通貨への両替が必要となる。しかし、この国ではタイバーツと米国ドルが自国通貨と共に流通しており、現地通貨への両替はさし当たって必要がないようだ。入国手続き終了後両替所を探すが見当たらない。この近くには大きなホテルが並んでいる。ホテル内にはカジノがありタイの金持ちが遊びにきている。ここで両替も可能だが交換率は良くないようだ。
 
 入国手続きを終え先に進むとロータリーがある。ロータリーからは一本の真っ直ぐな道が延びている。道の両側にはゲストハウスや商店が並んでいる。道路は穴凹だらけの褐色で満足に舗装されていなく、違う国に入国したことをつぶさに実感させてくれる。ここには客待ちの乗用車やピックアップトラックが駐車していて、客引きや到着した人々で混雑している。入国したばかりの旅行者を目指して客引きが寄ってくる。ピックアップトラックや乗用車に客を案内し、手間賃を得ようとしている連中だ。
 タクシーやピックアップトラックは満員になると出発するので客引きに忙しい。料金も"SIEM REAP"まで200から300バーツと人や状況により違う。乗客は乗用車の場合でも助手席に2人、後部座席に4人乗せるのでけして快適ではない。ピックアップトラックの場合も同様だが、荷台は荷物やバイクを乗せその上に人が鈴なり状態で出発となる。

 "POIPET - SIEM REAP"間には定期バスの運行はない。"BANGKOK - SIEM REAP"間にバスを運行しているツアー会社があるようだが、バンコクを朝出発しているので通過は午後になるようだ。それも空席が有れば乗れる可能性があるに過ぎない。
 私はバス事情を知るためにバイクタクシーで、数件のゲストハウスが片手間にやっている旅行代理店に行ってみた。しかし、料金(約$7)も高く、時刻も確かではないようで、ロータリーへ戻ることにした。ゲストハウスの人達によると、国境近くはスリも多く危険だから、ここで待つように忠告してくれたが、結局は戻ることにした。

 客引きの誘いに乗り一台のピックアップトラックの後部座席に、200バーツで乗ることに決める。後部座席には既に二人の若い日本人が座っていた。彼等は7ドルの約束で乗車したと話した。トラックは間もなく動き出し、5分程のマーケット近くで止まった。ここで客を乗せると共に私達には金を払えと言う。目的地に着いたら払うことで客引きと合意していた私は支払いを拒否した。助手席に乗っていた客引きは、運転手は私の兄で半分払ってほしいと言いだした。理由は途中で警官などに賄賂を支払わなければならないからと言う。私の分200バーツを渋々支払ったが、運転手は他の二人分も支払えと言う。約束と違い信用できないので、支払いを拒否しトラックを降りることにした。
 ここからトゥクトゥクに乗りロータリーへ戻る。先程乗る予定だった乗用車に300バーツの約束で乗り込んだ。助手席には二人の中年の女性が乗っている。これで私達を含め5人となったが、もう一人の客を求めて運転手は探し回る。しかし、遂に諦めて出発した。
 畑の中の未舗装な一本道の悪路を運転手は飛ばし、途中の町"SISOPHON"のマーケットで一人の客を捕まえた。4時間余りにてアンコールのある町"SIEM REAP"に到着した。

タイ側国境, POIPET
タイ側国境, POIPET
 
カンボジア側国境, POIPET
カンボジア側国境, POIPET

欧米人はアジアを目指す

 今回の旅行中に多くの欧米人旅行者に会い、話をしたり一緒に行動もした。ミャンマーを旅行する日本人はそう多くはなく、ドイツ人、フランス人、オランダ人が目立った。ミャンマーがイギリスの植民地であったことを考えると、イギリス人旅行者が多いと思われたが実際には少ないようだ。
 タイの首都バンコックでは欧米、中東、アジアからの旅行者で溢れかえっていた。特にスクンビット等の歓楽街では異様な混雑ぶりであった。それには理由があった。中華系の人々の正月が始まろうとしていた。因みにタイや周辺諸国の正月は4月中旬である。旧正月は2月の上旬で、ほぼ一週間休みになる。その間の混雑は覚悟しなければならなかった。息苦しいような混雑を避けて私は地方へ向かうことにした。 

 二月、三月という時期に西欧系旅行者が多いのは驚きであった。彼等の休暇は一般的に夏と思っていたがそうではないようだ。寒い冬を避けて暑い東南アジアを目指す人々も多いのだ。
 欧米人がアジアを旅行する一番大きな理由は滞在費用が安いからだ。2−3週間の休暇を取る彼等にとって滞在費は大きく、これをなるべく安く押さえようとしている。一般の西欧人は合理的な倹約家が比較的に多い。日本人のような一点豪華主義的な贅沢は決してしない。自分の身の丈にあった日常生活を送り、かつ海外旅行も楽しもうとしている。
 インレー湖で会ったオランダ人の若い夫婦は"MANDALAY - PYIN U LWIN(MAYMYO)"間のタクシー料金1500チャット(約310円)を利用するか随分悩んでいた。ピックアップトラックは300チャットなので5倍ほど高いのだ。
 ラオスの"VANG VEING"で会った若いフランス人女性は、1000キップ(約15円)の渡橋料を嫌い小川を直接歩いて渡っていた。彼等には理不尽な支払いは拒否する合理性が身に付いているようだ。彼女はその後節約した1000キップでバナナシェークを飲んでいた。彼女はベトナムのビザが下りるまでの間、ビエンチャンより安い一泊1ドルのドミトリーに泊まり出費を抑えていた。

 日本に行ってみたいと興味を持っている人々にも会ったが、滞在費用が高いのは一般的に知られているようで難しいと考えている人が多い。日本で一番安く泊まれる施設はユースホステルであるが、素泊まりで3000円くらいからだ。三食を2000円で食べたとしても、一日の滞在費は5000円を超える。一日1000円以下で滞在できる東南アジア諸国は彼等にとって魅力的なようだ。
 日本人でさえ旅館に泊まる国内旅行をするよりも、アジア諸国を旅行する方が違う文化を味わえてかつ安いのだから仕方がないことだ。

 2000年10月、3週間ほどスペインを二人でレンタカーを借りて旅行する機会があった。ヨーロパでは比較的に安いと言われるスペインでさえ、一日の予算は交通費を除き日本円1万を予定した。宿泊したホテルは最低で4700ペセタから最高は四星の国営ホテル、パラドールの19000ペセタまでであった。食事は定食で1000から3000ペセタ位までかかった。定食は一般的に前菜、主食、パン、ワイン、デザート付である。レンタカーは1.2リットルの小型車で15日間の使用で74000ペセタであった。(¥1=0.58ペセタ)
 スペインの滞在費は単純に計算しても二人で一日9000円を超える。堅実的な生活をしている標準的な西欧人にとって、やはり高い金額のようだ。彼等が西欧諸国内を旅行する場合は、キャンピングカーで長期滞在するか、安いコンドミニアムやペンションに泊まり、自炊をするなどして過ごすのが一般的のようだ。
 

日本軍の亡霊

 ミャンマーでの都市間の移動は一般的に航空機、鉄道、バスの何れかを使う。しかし航空機、鉄道はドル払いで外国人観光客には外国人料金が適用される。そこで貧乏旅行者は現地通貨払いで安いバスに頼ることになる。ところが道路事情の悪いこの国では移動に時間がかかる事夥しい。長距離区間のバスはほとんどが夜間運行されており、目的地に早朝着くように出発時間が設定されている。数社あるバス会社は同区間をほぼ同じ時間帯にバスを走らせている。バスは数時間毎にトイレや食事休暇を取りながら移動する。

 長距離バスの車両は日本の長距離バス会社や、観光バス会社の所有車がそのままの状態で使われている。車体に書かれた文字もJR東日本や地方バス会社の名前だったりする。日本で使われていたバスにはビデオ再生機とテレビが搭載されているので、乗客へのサービスとして夜間にはビデオが上映される。インレー湖より"MANDALAY"へ向かう時に乗ったバスも夜行であった。
 インレー湖の観光拠点"NYAUNGSHWE"より北に10km程離れた幹線道路の町"SHWENGYAUNG"へピックアップトラックにて移動した。交差点近くにバス停留所があり、すぐ側の食堂でバスが来るのを待つことにした。食堂にはオランダ人夫婦とアメリカ人のカップルが、バスの来るのを待っていた。前日購入したバスの予約チケットに時刻は19時と書いてあったが、"TAUNGGYI"発のバスが来たのは20時を回っていた。

 バスは補助席を使うほぼ満員状態で"SHWENGYAUNG"を出発した。インレー湖は海抜1000メートル余りあり、途中の町"THAZI"に向かって山地を降ることになる。この区間は山岳道路で道は狭く、幹線道路の為大型トラック等とのすれ違いも多く、距離に反して時間の掛かるところである。バスの乗客も落ち着きだした頃にビデオの上映が始まった。内容は三人の男性によるコミックショーであった。私は言葉が解らないので何となくそれを見ていた。
 コミックショウの内容は三人の役者が、それぞれ衣装を替え舞台に出て来て、特徴のある言葉や動きをして観客の笑いを誘う物であった。その中の一つに私は注目せざるを得なかった。
 
 舞台に二人の男が出てきた。一人は草色の耳隠しのある軍帽らしき物を被り、左手には軍刀らしき物を持っている。その男の正面に他の男が向かい合って立った。軍帽を被った男は「味の素」と言った。次に前に立っている男に往復ビンタの真似をした。そして軍帽を被った男がぞんざいな態度で「バッキャロー」と言う。その他の言葉はビルマ語で残念ながら私には理解できなかった。しかしこのコミックの意図する内容は明らかに私にも理解できた。
 「味の素」はアジア全域に知られた日本企業で、日本の象徴であり、「バッキャロー」は相手を侮蔑する言葉として、アジア全般に知られた日本語だ。これは明らかに日本人を風刺したコミックで、日本軍及び日本人がアジアでして来た事を、今も伝える強力なメッセージになっている。

 次の日訪ねた英国植民地時代の避暑地"PYIN U LWIN(MAYMYO)"の安宿に日本人青年が夕刻になり訪ねてきた。彼はこの宿のオーナーと親しく様子を見に訪ねて来たのだ。このゲストハウスのオーナーは50歳位で日本語を流暢に話した。日本の大学を卒業した後、日本の企業で働いた経験を持っている。
 日本人青年はミャンマーでお茶の買い付けをしており、観光客の行かない奥地を訪ねた帰りであった。彼はこの国で仕事をしているだけに事情通であった。日本が最大の援助国であることや、仏教国であるのに一夫多妻であること、ホテルでの盗難はホテル責任者が弁済すること、民主化運動家と接触すると秘密警察に監視されること等を話していた。
 私は昨日見たテレビのコミックショーの話をしたところ驚いていた。それと共に英字新聞に書かれていた「日本経済の悪化により毎年自殺者が倍増している」との記事を事実に反すると憤慨していた。
 このコミックショーについては"BAGAN"にて会った日本人にも話してみたが、その人の感想は「事実だから仕方がない」であった。私の受け止め方もそれに尽きるのである。

 元自民党の国会議員鈴木宗男が、外務省職員に殴る蹴るの暴力を振るった記事が、ニュース雑誌に出ていたが、戦後50年以上経っても、相変わらずこの国が立法、行政を含め、非民主的な人々で運営されていることに驚きを感じる。何処の国でも暴力を振るう人間はいるが、人間の尊厳を否定された側が法律に基づき対処すれば国会議員であれ処罰される。当然成すべきことを行使せず、役人と国会議員との間で有耶無耶にされている現状は、この国の体質をよく表している。コミックショーで訴えられた体質そのものが、現在も日本人の中に厳然と存在することを示している。

インド系の子供達
ドライブイン
 
INLE LAKE
マーケット, INLE LAKE
 
植物園, PYIN U LWIN
市芯,  PYIN U LWIN
鉄道駅, PYIN U LWIN

有名だった日本人の英会話下手

 日本人が英語を満足に話せないことは、かなり世界的に有名なようだ。今回の旅で現地の人々や外国人旅行者から再認識させられることになった。旅行中に英語を話すとしても、旅行者が話す内容は限られている。乗物に乗る為のキップの予約や購入、ホテルやゲストハウスでの部屋の有無、宿泊期間や値段の交渉ぐらいだ。さらに現地の人との会話にしても、挨拶をした後に今までにどの土地を訪ね、次は何処へ行く予定であるとか、話を続ければその土地の感想を述べる程度であろう。さらに話を進めても自分の家庭環境を話すくらいだ。初めて会った人と哲学の話、宗教や政治論争をする訳ではない。

 カンボジアのバイクタクシーの運転手は、ほとんどの人が英語を話していた。英語が話せなければ、客を得る事が出来ず飯が食いっぱぐれる。そういう面で彼等は真剣さが違うのだ。私の泊まっていた安宿の従業員も、私から日本語を習おうと何度となく聞きに来た。日本人がレストランに来たら扉を開け、お辞儀をして「いらっしゃいませ」と言うように教示しておいた。これを実行すれば日本人は喜んで、次も来る可能性が高くなることも付け加えておいた。しかしお辞儀をする習慣のない人に、お辞儀をさせるのは言葉を教えることより難しそうだ。

 高島平にもフィリピンパブが一軒ある。早い時間に行き、食物を注文せず、ホステスの指名もせず、得体の知れないウイスキーだけを飲むなら、1時間半店にいて3500円と安いので、英会話の練習に行くことにしている。ここで働いているほとんどのフィリピン女性は英語と日本語を話す。時には英語が余り得意ではない人もいるがそれなりに話す。私は日本人以外のアジア人に成りすまして行くことがある。その時は総て英語で通すことにしている。残念ながら英語はほめらたことはないが、友達と話した日本語は上手いとホステスに誉められた。
 フィリピンの大学では授業は英語で行われており、彼女達は男友達との恋文のやり取りも英文である。大学や専門学校を卒業している人が、英語を話すのは彼の国では当然のことなのだ。大学を卒業していて英語も話せない日本人は、彼女達にとって理解できないことの一つだ。彼女達は英語を話せない日本人を蔑んでいることがある。

 ラジオの英語講座を聴いていると「この言葉はジャパニーズ・イングリッシュです」と時々講師が指摘している。しかし日本で教えている英語はほとんどがアメリカ合衆国で使われている言葉だ。イングランド人から言わせれば英語は一つだ。アメリカでの英語は「アメリカン・イングリッシュ」にすぎない。それは「ジャパニーズ・イングリッシュ」と同じような物だ。
 イングランド人は自分達の言葉が当然正統だと思っている。しかしイングランドの中にも純正英語、下町英語、地方英語とそれぞれだ。更にスコットランド、ウェールズはイングランドとは違う言葉だ。
 インターネット社会になり世界共通語としての英語の重要性はより大きくなっている。しかし世界的に使われることは「和製英語」のような方言が、それぞれの所で生まれる事になる。これは誰にも止められない。

 以前ドイツで会ったアメリカ人がインド人の話す英語が理解できず、そのインド人から「貴男は英語を話せるのか」と言われたと苦笑していたことがある。この自信が日本人にも必要な気がする。英国人や米国人だからといって、お互いの言葉が理解できない状況は何度も体験し話にも聞いている。
 私の知人の英国人が米国人の女性と町で初めて会い、会話を持ったときにお互い何を言っているのか理解できなかった。地方都市に在るホテルのエレベータ内で知人の英国人技師と話をした後、たまたま乗り合わせていた米国人らしき男性から英国人との会話を「貴男は理解できるのか、自分は解らない」と不思議そうに言われたこともある。

 茨城県の地方都市に滞在中、英国人技術者と映画を見に行ったことがある。この町の中心部には3軒余りの映画館が営業していた。放映されていたのは米国映画でフェイク(Fake, 原題はDonnie Brasco)であった。内容はFBIの潜入捜査官がマフィアに侵入し、そこで出会った男との友情と葛藤を描いた実話が映画化された物である。内容からして、スラングが多く、同じ英語であっても彼には理解できない言葉が多かったようだ。私に対し「字幕が有ってお前は良かったね」と話していた。
 英国人や米国人でさえ同国人が理解不能な言葉(英語や米語の方言、スラング)を話している人々がいるのだ。下手だから発音が悪いからといって何も臆することはないのだ。

 結局は日本人の英会話下手の原因は必要がないからに尽きる。日本に住んでいて外国人と話す機会がほとんどないことである。必要でもない物をわざわざ勉強する人はいない、お金と時間の無駄だ。大学受験に英会話を含めれば皆が出来るようになる。中学校や高等学校においても英語の学習に会話は含まれていない。会話は文字が読み書きできなくても文法が解らなくても出来る。
 英語は特に不定型が多いと言われている。そういう意味では難しい言語に属するようだ。これを克服するには理屈抜きでただ単にそれを覚えるしかないのであろう。何処の国の子供でも言葉はそうやって親から覚えさせられている。「英語の習い方」などという本が出版され、売れることは不思議なことだ。英語だけが特別ではない。

 環境や文化の違う所に住む人間が外国語を正しく理解するのは、ある面でほとんど不可能に近いと私は考えている。日本語の単語一つをとっても、住んでいる場所やその人の生活環境や習慣により、受け取り方感じ方が違うのは至極当然のことなのだ。言葉はその様な違いを含んだ意志疎通の一手段であるに過ぎない。
 しかし貧乏旅行に出かけるので有れば、最低限の交流を持つ為の会話力は必要と考える。今回の旅行中に会った大学生達が、簡単な英会話さえ出来ないことを当然とした態度には理解に苦しむところだ。

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