貧乏旅行の話

13.日本人はバナナ

電灯のない部屋

日本人はバナナ

メニューのないレストラン

再会した人々

電灯のない部屋

 日本において電気の供給がない地域など現在はほとんどない。あっても山小屋や一部の山奥の温泉などで「ランプの湯」を売り物にしている所ぐらいであろうか。最近は山小屋でも発電機を持っている所も多く、蝋燭(ろうそく)やランプには滅多にお目に掛からない。普通の家庭では停電することもほとんどないので蝋燭を使うこともない。あってもレストランでの蝋燭か誕生日用のケーキに付いているぐらいであろう。
 
 しかし日本を一歩離れると話は違うことを知ることになる。今回旅をしたラオス北西部の州都"LUANG NAM THA"では夜間の3時間(18時〜20時45分)程の電気供給しかなかった。一部のゲストハウスやホテルでは発電機を持っていて、電灯を点けている所もみられる。しかし、一般の家庭ではそんな金のかかる物はない。ほとんどの温水シャワーは電気ヒーター式なので、この時間帯しか利用できない。主要都市でさえこの状況なので山間部の村々では電線が繋がっていない。

 タイとの国境の町"HUAY XAI" から国道3号線を"LUANG NAM THA"へ向かう途中、ソンテウのブレーキが故障し、修理のため小さな集落に停車した。午後の6時を過ぎ空は薄暗くなり、外で遊んでいた子供達が何事かと集まってきた。家の近くでは焚き火が焚かれ、炎の明かりで暖を取る村人が浮かび上がる。暗闇が迫っても家々に明かりは点らず、真っ暗闇と成る。廻りを山々で囲まれた月の出ない空は満天の星であった。
 しかしラオスが電力不足でないことはタイに電気を販売して外貨を得ていることからも解る。首都"VIENTIANE"北部には"NAM NGUM"ダムが、日本を含むメコン委員会の援助にて1971年に完成し水力発電が行われている。

 ラオス最北端の州都"PHONGSALI"より"HAT SA"を経て、メコン川の支流ウー川を10人乗りの低速船にて二日間掛けて下った。辿り着いた地"NONG KHIAW"で泊まったゲストハウスの部屋には電灯がなかった。このゲストハウスは舟着き場を上がった所にあり、部屋数も10部屋余りで人の良さそうな小太りな中年の夫婦が経営している。入口近くに食堂があり、その他に外国人観光客相手に外貨両替(この村に銀行はない)、洗濯等の商いもしている。
 ゲストハウスの料金はシングル7000Kip(約80円)、ダブル10000Kip(約120円)である。今回の旅行では最安の部屋であった。建物はブロック塀で作られ、各部屋の仕切は桟とベニヤ板一枚である。殺伐とした室内にはベットと蚊帳以外に何もなく、綺麗な部屋とは言い難かった。他のゲストハウスも似たような物なので、私の主義として設備が同じならば一番安い所に決定した。

 最初電灯がないゲストハウスの部屋など考えも及ばなかった。夜の静寂が迫り廊下の蛍光灯が点灯し、自分の部屋の天井を見上げて、電灯がないことを初めて知ることになる。部屋には廊下からの零れ火が入るだけである。それでは暗いので蝋燭を点けることにした。蝋燭一本の明かりで室内はほの赤く照らし出され、気分が少しはましになった。
 その日の泊まり客は私一人であった。夜の6時を過ぎ、夫婦が食事の準備を始めたので私の分も依頼した。この食堂には粗末なメニューが壁に貼られてある。しかし、希望の食べ物が出来るはずもなく、ビールも冷えてはいない様で飲むのを止めにした。皿に山盛りの餅米と、牛肉と野菜の炒め物が私のテーブルに並べられた。夫婦も一緒に食事を始め、私も黙々とこれらを平らげた。皿一杯の餅米はかなり胃に重かった。
 この家には冷蔵庫があったが、3時間余りの電気の供給では使い物になりそうもない。台所の竈(かまど)は薪を炊き、洗濯は盥(たらい)でする昔ながらの生活であるが、不思議と私に違和感はなかった。これが人類の自然な生活なのだと思えた。

 "NONG KHIAW"は川沿いに高く岩山が迫る風光明媚な静かな村である。観光名所として近くには鍾乳洞や滝などがある。テレビやラジオからの音楽もなく、夜間人通りも少なく静かであった。観光客は少なく電気の止まる9時前には食堂を閉め始めたので、私も部屋に戻り寝ることにした。闇夜で星空を眺める楽しみを次の機会にしてその日は早々と眠りについた。

 私たちは電気の便利さに慣れ、物欲を煽られ、さして必要もない電化製品や品物を買い集めている。そして道具や物を持ち、便利になることにより幸せになれると錯覚させられている。ラオスでは現代の西洋型社会文明に毒された生活とは、ひと味違う環境を味合うことになった。

ブレーキ故障で立ち往生
国道3号線LUANG NAM THAへの道
ウー川をボートで下る
NONG KHIAWへの途中
 
ウー川に架かる橋の上より, NONG KHIAW
ゲストハウス前の道路, NONG KHIAW

日本人はバナナ

 カンボジアの首都プノンペンのほぼ中央にキャピタルというゲストハウスがある。旅行者相手に食堂、近隣諸国の査証取得手続きと市内観光バスや長距離バスも運行している。ここは比較的に若い外国人が集まる所である。キャピタルは華僑資本で近くに5軒のゲストハウスを持っている。その中で比較的に綺麗な宿"HONG PHANN"ゲストハウスに今回も私は泊まっていた。
 受付には30歳は過ぎているが小柄でキュートな女性がいる。彼女は以前外務省に勤めていたとかで英語が堪能であった。今年の3月に会って話したこともあり8ヶ月ぶりの再会で、今回の旅行の話やカンボジアの政治問題について話していた。彼女は桜の咲く頃に日本を訪ねてみたいと話し、元副大統領の汚職問題を強く批判していた。
 その時にゲストハウスに戻ってきたのが宝石関係の仕事をしているドイツ人で、カナダに住んでいる背の高い太った男であった。この宿には時々泊まるようで彼女もこの男の事は詳しく知っていた。年齢が71歳であること、ドイツに子供がいること、現在は中国人と結婚していることなどを男が部屋に戻った時に話してくれた。

 その男は私が日本人と解ると、日本の都市の名前をあげて行ったことがあると話し出した。そして自分には日本人の「藤子」と言うガールフレンドがいて、2年間ほど付き合っていると男は言った。一般にこの手の話は不愉快になるので私は好まないのだが、男の話の続きを聞くことにした。
 その恋人は40歳で東京に住んでおり会社勤めをしていると話した。彼女は朝早く家を出て遅く帰る「働き中毒」であること、彼女の母親に会ったこと、母親から純粋のドイツ人であるかと聞かれたこと。そして10日間ほど休暇を取り彼女を連れてドイツ国内を旅行したことなどを話した。
 しかし彼女にとって初めてのドイツ旅行は新鮮さが無く満足の行く物ではなかったこと。食物に対しても日本の食事が最高であると不満であったことなどを話した。
 日本人には外国を旅行していてその国の諸事情を理解できず、日本の社会状況や自分の生活と直接比較して、外国の慣習や生活を批判する人が時々いる。そういう人は必ず最後に日本が一番良いと言う。この女性も同じ状況なのかと私には思われた。
 
 私が男の話を聞いて大いに興味を抱いたのは40歳にも成る日本人女性が、外国人の70歳を過ぎた老人とも言える男性とどの様に出会い、どの様な生活を夢見ていたかと言うことであった。日本人やアジア人には、現在のあらゆる情報が容易に得られ自由に旅行できる時代になっても、外国や外国人に盲目的に憧れている人が多くいることは驚きである。しかし憧れている物や目的が具体的であればその憧れは問題無いのだが、ただ単にムード的に憧れている人が多くいることが私には不思議に感じられる。

 最後に男は「日本人の5から10パーセントは自分を西洋人だと思っている」と言った。これは面白い興味のある発言であった。貴方は何故そう思うかに始まり、欧米では自分達(アジア人)が差別されていることもその人達は知らないのかと私は問いかけた。
 この話を聞いていて昔何度か訪ねたフィリピンのことを思い出した。彼の国の人々は日本人を「バナナ」に例えていることである。その意味するところは黄色人種であるに係わらず、白人の様に他のアジア人に接している事の指摘である。これには日本人がアジア人としての自覚が無く、他のアジア人に対し高圧的な態度であることへの強い反発と批判が込められている。

 黒い髪を金色や茶色に染めたからといって日本人が西洋人になれるわけもない。ましてや欧米で有名な高級ブランドの鞄、洋服や装飾品を身に着けることにより、西洋人の金持ちの仲間入りが出来るわけではあるまい。憧れて留学した欧米諸国で、アジア人ということで理不尽な差別に合い、帰国後国粋主義者になった人の話は良く聞く。
 日本人がアジア人としての自覚と主体性を持ち、経済的にも欧米人に対し優位に立つことにより、少しでも相手の差別感を見返す良い機会があった。しかし、現在の経済状況と自信喪失状態ではその可能性は無いに等しい。

 最近日本人はアジア諸国の人々に"AJI NO MOTO"(味の素)と呼ばれている。英語では日本人の軽蔑的呼び方に"JAP"や"NIP"等があり、東洋人一般には"GOOK"や"DINK"と呼ぶがこれに近い悪いイメージを私は感じている。

メニューのないレストラン

 ラオス最北端の州都"PHONGSALI"は標高1300メートル余りあり、山の中腹の斜面に横長く町が広がっている。ユネスコ世界遺産都市"LUANG PRABANG"の北部にある"UDOMXAI"より中型トラックの荷台に乗り1日掛かりの行程である。30人余りの乗客の内、外国人旅行者は私を含め5人であった。沢山の荷物を持ち、荷台の奥に陣取ったイタリア人の60歳を過ぎた男性二人、スイス人の20歳代のカップル一組である。道路は全行程の1/3は舗装されていて比較的に良く、中間は未舗装の山道、後半は簡易舗装になっている。3日間ほど強く雨が降り続いた後だけに未舗装で粘土質な道はぬかるみ途中で車が泥道にはまるなど容易ではなかった。

 私の滞在した11月の下旬は天気も悪く気温も15度と思いの外低くかった。その観光客も余り来ない町の中央にあるホテルに、トラックで知り合った英語を話す"VIENTIANE"から出張で来た男と行き、50000Kip(約5ドル)で宿泊することになった。ホテルはシャワーが水で冷たくポットのお湯で体の汚れを流す程度にした。このホテルの従業員は英語を理解せず、食堂にはメニューもなかった。たまたまレストランで食事をしていたフランス人の通訳で野菜スープ、牛肉と野菜の炒め物にビールを飲むことが出来た。

 しかしアジア諸国などでは高級なレストラン以外はメニューがないことも多い。これが普通なのだ。現地の人々は何等不都合を感じていないであろう。こういう場合は食堂らしき店の台所に行き鍋にある食べ物を確認し、更に値段を確認して食べることになる。腹が空いていれば何でも食べられるし、知らない食物を食べるのも旅の楽しみだ。最終的には何でも良いから食べる物があればそれで良しとなる。

 昔イタリアの北部にある町"NOVI LIGURE"に滞在している時に訪ねた近くの小さな村"GAVI"にある著名なレストランにはメニューがなかった。席に掛けてメニューを依頼するとウエイターは「私がメニューだ」と答え料理の名前を言い出した。イタリア語が片言しか解らない私には理解出来るはずもなく、廻りで食べている人の料理と同じ物を注文することになった。しかしイタリア人は侮れない人々なので食事が終わり会計が済むまで要らぬ心配をすることになった。

 今年の始めに訪ねたビルマの"MANDALAY"の南に位置するリゾート"INLE"湖にあるゲストハウス"FOUR SISTERS INN"での夕食は定食で値段がなかった。私が訪ねた時には同じテーブルにドイツ人男性が一人で既に座っていた。彼も旅行好きらしく、しばし今まで訪ねた国や印象深かかった処などをビールを飲みながら話していた。その内食事の準備が出来たようで、二人の前に鳥のカレー煮込みや野菜の煮付け等が運ばれてきた。「二人で分けて食べてくれますか」とのことで同じお皿から料理を取りながら食べていた。5種類余りの料理が次々に出てきてこれらを二人で食べていると少なくなると補充してくれる。
 食事が終わり値段を聞くとビールの金額しか言わないのだ。更に聞くと金額は「自分で決めてくれ」と言う。これは難しい要求だった。相手に落ち度があり味も満足が行かない物であれば「こんな物に金が払えるか」との啖呵(たんか)の一つも切れるがそういう状況ではない。今まで食べた食事の値段を思い出しながらそれ以上の金額を支払いその場を後にした。

 ラオスなどの奥地へ旅行する場合には事前に食料を用意して置かないと、途中の村で手に入れることが出来ず食べはぐれる可能性も多い。現地の人々は行李(こうり)飯(ラオスでは一般的には餅米)と焼いた肉や野菜の煮物を食料に持ち歩いている。そして自分達が食事をするときには必ず側に居る人に一緒に食べないかと声を掛けている。町の中心やバスの発着場近くにある朝市に行くと肉、野菜や果物とは別に炊き立ての餅米、焼いた肉や野菜の煮物が売られている。
 貧しかった昔には食料や寝具まで持ち歩かなければならなかったと"HUAY XAI" から"LUANG NAM THA"へのトラックで一緒になった眼鏡の行商をしている40歳代の男性は話していた。

ぬかるみにタイヤを取られ立ち往生
PHONGSALIへの道
昼の休憩、PHONGSALIへの道
 
PHONGSALIの町並み
ラオス舞踊を楽しむ、PHONGSALI

再会した人々

 海外旅行を趣味としていてもなかなか同じ場所を訪問する機会は少ない。地球は大きく世界は広いので出来るだけ違う処を旅行したいと私は考えている。初めての町に到着した時の新鮮な心の高ぶりと期待は何時も大きいものだ。しかし今回の旅行で少し考えも変わりそうだ。旅先で知り合った人々と再会するのも又楽しいのだ。
 旅行先にて現地の人々と初めて会って親しく会話を持ち、そして別れを告げたときに「又いらっしゃい」、「次は何時来るの」と言われるのは自分が彼等に受け入れられたようで何となく嬉しい。今回の旅行ではベトナムから陸路でカンボジアを通りタイに入国したこと、タイ北部からラオス北部を旅行したことにより前回訪ねた町に滞在する機会があった。

1.カンボジア
 前回"SIEM REAP"で泊まったゲストハウスには今回は2泊することになった。受付にいる女性も私を覚えていてくれて笑顔で迎えてくれた。このゲストハウスの一階部分は中華料理の食堂に成っており100席以上有る大きな店である。町の中心から東に少し外れてはいるが国道6号線に面している便利さもあり朝食を食べに地元の人も来る所だ。宿泊客もカンボジア人が主である。
 2階と3階部分にあるゲストハウスの各部屋には冷房装置や衛星放送が受信できるテレビが入り、前回苦情を言った窓には薄い寸足らずのカーテンも付くなどそれなりに改善されていた。しかしほとんどの従業員に移動はなく夕食時に顧客も少ないこともあり前回同様閉店近くまで話をして過ごすことになった。

 前回オートバイを買いたいと言っていた30代前半のウエイターには預金は貯まったかと聞いてみた。1ヶ月60ドルの給与から少しずつ貯めていること、買ったら使わない時には人に貸して日銭を稼ぎたいことなど夢を語ってくれた。
 そして今年の8月に1ヶ月間ツアーコンダクターをしている日本人女性が食事に来たこと、彼女はあまり英語が得意ではなく会話に苦労したこと、彼女を好きになったが自分の収入が少ないので諦めたこと、そして最後に彼が言った「彼女の話す英語は日本語だ」これには苦笑せざるを得なかった。台所から中国人のコックも来て話は更に盛り上がった。

2.タイ
 タイ北部ラオスとの国境の町"CHIANG KHONG"にあるゲストハウス"HUAWIANG COUNTRY"に夜8時過ぎに到着し今回も宿泊することにした。阿川佐和子に似た女将も田中小美昌に似た親父も元気そうであった。男の子も体が一回り大きくなり今回は愛想が良かった。ゲストハウスの隣には旅行代理店も開き、近くにはタイスキレストランが開店していた。その反面出入国管理事務所に近い地域は寂れレストランは閉めていた。

 前回会った日本人女性と西洋人男性カップルの近況を聞いた。あれから引き続き宿泊しておりタイ語も上手くなったこと、今は中国に旅行に行って留守であること、荷物は2階に預かっていることなどを話していた。
 シャワー、トイレのない部屋が改造され今回この改造した部屋に150バーツ(約450円)で泊まることにした。翌日料金を払うと女将は何も言わずに20バーツ(60円)を値引きしてくれた。金額の大小ではなくこれは嬉しかった。何となく女将の気持ちが伝わってきた。今回はビザの手配も"CHIANG MAI"で済んでおり此処に逗留する必要はなく、国境が8時に開くのと"HUAY XAI"でのバスの時間を気にしつつ別れを告げて宿を去ることにした。

3.ラオス
 ラオス北部山岳地帯の旅行を終えてタイへ戻るのに"LUANG PRABANG"と"VIENTIANE"を通過することにした。今回も"LUANG PRABANG"の旧市街にあるゲストハウス"PHOUN SAB"に泊まることにした。
 店に入ると受付の側には生まれたばかりの赤ん坊と女将が寝ていた。前回利用した同じ部屋に荷物を置いて遅い食事を取っていると主人が来た。挨拶の後何処に泊まっているのか聞かれ、私は「もちろん貴方のゲストハウスで今着いたばかりだ」と答えた。後ほどゆっくり話すことにしてその場は別れた。6歳になる娘も大きくなり9月から学校に通いだしていた。

 ソンテウ(小型乗合トラック)の運転手も来て近況を聞いた。古くなり所々穴の開いていた軽4輪車を中古の良い物に買い換えたこと、3人の子供も元気なこと、そして観光に誘われたがそれは辞退した。
 主人と女将とは仏教の行事に使う笹の葉で蓮のつぼみを作りながら今回の旅の話やラオスの現状について話をすることになる。

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