貧乏旅行の話

7.アウシュビッツに泊まる

アウシュビッツを目指す

プラハを訪ねる

チェコからポーランドへ

アウシュビッツに泊まる

ビルケナウ収容所を訪ねる

強制収容所について

アウシュビッツを目指す

 アウシュビッツに行ってみたいと思い出したのは、何時の頃であっただろうか。随分昔のことでハッキリしない。10代後半の多感な時期のような気がする。人間の行う大量殺戮行為の象徴としての遺跡である、アウシュビッツ強制収容所を、自分の目で見てみたいと思ったからだ。そして人間の犯す愚かな行為が、何故行われるかを少しでも確かめてみたいと考えたからである。
 戦争と一般的な人間が日常生活で起こす殺人を比べると、個人の殺人などは高が知れている。刃物による殺傷か銃による殺害程度だ。しかし国家や軍隊となれば話は違う。如何に多くの人間を効率よく殺害するかを目的に、開発された近代兵器を持つ、殺人のプロ集団だ。しかし多くの人は軍隊を殺人鬼だとは考えないし、一般的にそうとは言わない。軍隊は国家体制と、国民を外敵から守るために戦う目的で、国家公務員として何処の国でも認知されている。そして国内の治安を守る警察とは、明確に区別されている。

 日常生活で普通一般に人々が起こす殺人は厳しく悪とされ、戦争時の軍隊における他民族への殺人は一般的に寛容だ。ここで言う他民族とは戦闘員、捕虜、住民を含めて言えることだ。これは不思議なことだ。殺人が悪であるならば、それはどの様な国家間、民族間、人種間においても同じでなければならない。これは不変の真理と思われる。しかし戦争に於いてはそうではないようだ。
 一般の人にとって殺人を犯すことなど、考えも及ばない理解に苦しむ行為である。他人に危害を加えることは悪とする、社会道徳を小さい時から何処の国家、民族に於いても教育されてきている。だからこそ殺人を犯した人間に対し、人々は厳しい感情を持ち、当然の如く法律によって厳正に処罰される。しかしその一般の人が戦争に行き、殺人を犯す事を国家が要求する。戦争での殺人を社会が容認し、時には英雄として崇められたりする。また本人もこれを当然のこととして受け入れ、罪悪感は希薄と思われる。人間社会に於いて、こういう状況は今後も変わらないのであろうか。

 人間社会は国家内、民族内における秩序を守るために、殺人などの犯罪は悪とする道徳観を住民に持たせる。しかし戦争状態になると、自分たちの権利を守るために、他民族を殺害してもかまわないという二律背反な、道徳観を持たされているようだ。戦争となると多くの人は、殺人をやむを得ないと認め、認めなくとも戦争だから仕方ないと考える。
 戦争となると国民の多くが、国の指導者により愛国心を煽られ、如何に正義で有るかと誘導され、集団ヒステリー化し、その行為を容認するのだ。戦争は日常の道徳心とは違う次元に、興奮状態に、多くの人々を向かわせる。権力者は自分の都合の良い情報だけを国民に知らせ、その他は隠し通す。情報を知る立場にある新聞やテレビ等のマスメディアも、情報操作に協力する。そして国家の命令に従わない国民は、反社会的犯罪者として処罰する。
 この構図は、第二次世界大戦時の全体主義国家と、現代の民主主義国家に於いても何等変わっていない。

 国家間の争いは現代の民主化された社会に於いても無秩序であり、強者が弱者を席巻し、勝てば総てが正当化される状況にあるのだ。
 その様なことを考えてから長い年月が経っていた。1990年9月下旬、2週間の休暇を取りポーランドを含む東ヨーロッパ諸国を訪ねることにした。訪問都市はチェコスロバキアのプラハ、ブルノ、ポーランドのアウシュビッツ、クラクフ、ワルシャワ、東ドイツのベルリン、ライプツィヒ、ワイマールと決定した。

 1980年代後半から、ソビエト連邦を中核とするワルシャワ条約機構が崩れはじめ、ソビエトと東ヨーロッパ諸国が、民主化へ大きく変わろうとしていた時代であった。
 ソビエト連邦軍は1979年12月より、アフガニスタンに約10年間駐留した後、成果を残せず撤退する。10年余りのアフガニスタン侵攻で、1万5千人のソビエト軍人が死亡し、3万人以上が負傷したとされる。戦死者の増大による政府への批判と、長期間の戦争で経済的に活き詰まったソビエトは、ゴルバチョフ書記長が進めるペレストロイカ(改革)により、この状況を乗り切ろうとしていた。東ヨーロッパ諸国もその流れの渦中にあった。
 その後の歴史は1991年8月ソビエト連邦保守派によるクーデターの発生、ヤナーエフ副大統領が大統領に就任、1991年12月ソビエト連邦の崩壊へと続いていく。

 1990年10月3日に、東西ドイツの統合が決まった。旧首都ベルリンにおけるドイツ統合式典が、旅行計画中に判明した事により、南から北へ回るコースに変更し旅に出た。
 

プラハを訪ねる

 成田空港10時30分発のマレーシア航空機MH−071便にて台北を経て、8時間余りにてクアラルンプールに到着する。3時間の乗り継ぎ時間後、MH−008便にてドバイを経て、14時間余りにて早朝のフランクフルトに到着した。ドイツ入国手続き後、ルフトハンザ航空の発券窓口に向かい、日本にて予約済みの航空券を購入する。さらに3時間の乗り継ぎ時間を経て、1時間余りにてチェコスロバキアのプラハ空港に、10時30分に到着した。31時間余りの長い空の旅であった。プラハ空港は首都としてはこじんまりとした小さな飛行場である。
 入国審査は社会主義国一般に見られる手回り品、持ち込み通貨、クレジットカードなどの申告が必要であった。以前あった外貨との強制両替は廃止されていた。

 チェコスロバキアには15年振りの訪問となる。前回はモスクワよりウクライナ共和国を通り、ウイーンへ向かう列車にて通過したに過ぎない。この国の印象は車窓から眺めたおぼろげな記憶しか持ち合わせていない。
 空港より乗合バスに乗り市芯へ向かう。プラハ中央駅近くにてバスを降り、地図を片手に火薬塔を目標に国営旅行社チェドックへ向かった。探し当てた旅行社は食事時間でシャッターが降りていた。旅行社前で思案していると車椅子の老人から声をかけられた。
 チェコには近年西側からの観光客が増加し、慢性的なホテル不足に見舞われていた。その為個人営業のゲストハウスが繁盛していた。自分の住んでいるアパートの一室を旅行者に貸し、外貨を得るという方法である。その為国営旅行社前には客引きがたむろしていた。老人はその内の一人であった。

 片言のドイツ語を話す車椅子の老人に、言われるまま彼の乗る車椅子を押しアパートに向かう。人の乗る車椅子を押す経験は私には初めての事であった。道路や歩道の小さな段差に悩まされながら、老人の住む共同住宅に着いた。
 狭く薄暗い入口を通り、蛇腹式開閉扉の古いエレベータに乗り二階へ上がる。エレベータの隣が老人の部屋であった。部屋には誰も居らず、しかも薄暗く汚い部屋である。部屋には冷蔵庫と箪笥が一つ、それに2台のベットがベットメイキングもされず放置されていた。1台は窓際の床に、これは普段老人が使っている物らしく、もう1台は入口近くの洗面所上部の屋根裏部屋に設えてあった。余りの酷さに立ち去ろうとする私に、老人は宿泊金額を朝食付で最初の20ドイツマルクから、15マルク(約1300円)に値引きすると言った。

 私は部屋に入った時点で、宿泊しないことに決めていた。待望の休暇を取り、胸を膨らませ、高額の旅費を払い、行き着いた地で泊まるにしては余りにも惨めすぎる。足の悪い老人が車椅子を転がし、300メートル余りの凸凹した石畳の道を、国営旅行社まで行く苦労は私にも理解できた。そして旅行者を部屋に泊めることにより、生活の糧を得ていることも解った。しかしその部屋は私の許容範囲を遙かに超えていた。

 しわ深い老人の落胆した顔に見送られ、私は国営旅行社に戻ることにした。国営旅行社にて紹介されたホテルSOLIDALITA(連帯)は町の東方へ、路面電車にて15分ほど行った郊外の住宅地にあった。ホテルはオフィスビルのような味気ない建物である。宿泊料金は400コルナ(約3600円)でバス、トイレもない粗末な部屋であった。螺旋状階段の中央に設置されたエレベータは内扉が無く、外観は筒状に制作されたトタン張りで、中に乗った人が指示した階にしか停まらない代物だった。このホテルには定年を過ぎた赤ら顔で、小太りのロシア人夫婦がグループで宿泊していた。

 プラハの中心地、旧市街広場周辺は第二次世界大戦の被害に遭わなかった為か、中世に建てられた古い建物が多く残っている。これらの建物がプラハを歴史のある落ち着いた町に感じさせている。その広場からPARIZSKA通りをブルタバ川に向かい、北に進んだ左側にユダヤ人街がある。今は博物館となっているシナゴーグや、ユダヤ人墓地、収容所に収監されたユダヤ人の所持品、手紙や絵が展示されている。
 13世紀頃から時の権力者が、各地で迫害されたユダヤ人を受け入れたこともあり、ヨーロッパで最初に出来たゲットーで最大規模となり、人口は6万人余りとなった。1939年ドイツ軍によるチェコスロバキア占領前は、ヨーロッパ各地で追放されたユダヤ人がプラハに避難してきていた。占領後ユダヤ人はこの地から各地の収容所に護送された。プラハ北方60kmの町テレジンには、1940年ドイツ軍により造られた収容所がある。ここは最初、思想犯が収監されていたが、後にユダヤ人収容所として使われることになる。

 プラハには2泊して国立博物館、火薬塔、旧市庁舎、ユダヤ人街、カレル橋、プラハ城、スメタナ博物館等を観光した後、次の目的地モラビアの中心都市ブルノへ高速バスにて向かった。

プラハ空港
カレル橋にて
 
バーツラフ広場
カレル橋とプラハ城
 
ユダヤ人街
ユダヤ人墓地とシナゴーグ
 
博物館内部

チェコからポーランドへ

 チェコ共和国の東の外れにあるブルノ市駅を13時過ぎに出発した列車は、ポーランドとの国境の駅PETROVICEに着いたのは16時過ぎとなった。社会主義国の国境通過は何処の国も煩雑で時間が掛かる。この国の国境も同様であった。国際列車のコンパートメントにて、チェコスロバキアの出国と、ポーランドの入国手続きが同時に行われた。
 1.チェコの係員が来てビザの一枚を持っていく。
 2.ポーランドの係員が来て持ち込み品、外貨の申告。
 3.ポーランドの他の係員が来て旅券に入国印を押し、ビザの一枚を持っていく。
 4.チェコの係員が来て残りのビザ一枚を取り、旅券に出国印を押す。

 列車は一時間ほど国境の駅に停車した後、ポーランドに向かい発車した。そして列車は夕刻のKATOWICEに到着する。駅構内で外貨両替所を探すが閉まっており現地通貨に替えることが出来ない。こういう状況では選択技はただ一つ、大きなホテルに行くのみである。この方法は貧乏旅行にそぐわないが、部屋と食事は確保でき、宿泊者には外貨の両替をしてくれる場合が多い。

 地図を持たずに知らない町の駅に降り立ち、回りを見渡して方向を定め、歩き出す時の緊張感は一人旅の醍醐味である。まして夜ともなれば尚更のことだ。何処の国も日本の町のように街灯は明るくはない。ホテルの名前とだいたいの方向を聞いて歩き出した。国営の4星ホテルORBIS-SILESIAにて外貨両替を済ませた後、宿泊料金を確認する。シングルルームが196,000ズロチ(約3、000円)とプラハでの料金と比べ、思いの外安く宿泊することに決める。
 受付前に東洋人がいたので英語で話をすると、韓国人の商社員であった。東洋人がほとんどいない土地で彼等に会うと何故か親近感が沸く、彼とはロビーにて半時余り韓国旅行の印象や、日本における韓国系歌手等の話をする。
 部屋に入りテレビを付けてチャンネルを回していると安藤優子が出てきた。それも日本語で話している。これには随分驚いた。東ヨーロッパで日本語がテレビで聞けるとは思いもしなかった。良く見ると日本の民間放送のニュース番組だった。その他に英語、ドイツ語や映画等の番組があった。この国に解放が進んでいることを強く感じさせられた。

 久しぶりにゆっくりとバスタブに浸かった後に、ホテル内のレストランに行くと、広いにも係わらず混雑していた。入口近くのクローク前には、何故か身綺麗にした若い女性が多くいる。彼女達は私が側を通ると、此方をチラリと見た。開いていた席に着き、米入りトマトスープ、サラダ、鴨肉ソテーのロシア風、ビールを注文して料理が運ばれてくる間、周りの人々を観察する。レストラン内にいる女性達は別のテーブルの男性客と話をしたり、席を移動したりするのを見ていて合点した。レストラン入口に、宿泊者のみと書いてあるレストランもまた珍しいのだ。若い女性が美しい洋服を着て、高価な装飾品で身を飾りたい気持ちを満たす安易な方法として、この国に於いても女性労働の自由化が進んでいる事を理解した。

 翌日は昼近くの汽車の時間まで町中を見て回る。しかし近代的な商業都市で観光資源は少ない。教会などを見た後、ホテルに戻り荷物をまとめ、KATOWICE駅よりアウシュビッツ収容所のあるOSWIECIM駅へ2階建て列車にて向かった。

ブルノ市街
国境の駅PETROVICE
 
KATOWICE駅前
2階建列車、KATOWICE駅

アウシュビッツに泊まる

 ワルシャワの旧市街広場のベンチで知り合った20代半ばの日本人女性に、私が今回の旅行で訪問した都市の印象と共に、アウシュビッツに泊まった事を話した。これから訪問する予定の彼女は、気味悪がって泊まりたいとは思わないと言った。彼女はアウシュビッツと聞いただけで、ある種の恐怖心を持ったのであろう。日本の出版社が発行している若者向けの観光案内書にも、宿泊施設の事は一切書かれていない。まさか彼女はドイツ軍が収容所に使った建物が、ホテルとして使われていると思ったのではないと思う。もしそうだとしたら、大切な歴史的建造物の破壊として、世界の平和運動家からの非難は免れないであろう。

 私が宿泊したホテルは、アウシュビッツ博物館管理事務所の2階にある。1階は事務所、映写室、手荷物預かり所、売店、カフェテリアなどがある。1階の左側の大きく開いた空間が収容所への入口である。この建物の右側は大きなカフェテリアとなっている。カフェテリアと通路の間に木製の扉がある。ここが2階にあるホテルへの入口であるが、表示がなく解りずらい。その扉を入り正面にある階段を上がると受付がある。私が訪ねた時にはドイツ語を話す中年の女性が迎えてくれた。バス、トイレ共用の一人部屋が12万ズロチ(約1900円)とけして安いわけではない。しかし今回の旅行では、宿泊することに計画段階で決めていた。

 宿泊手続きを済ませ、部屋に荷物を置いて、遅い昼食を取る為カフェテリヤに入った。中は見学に来ている学童達で一杯である。カフェテリヤはセルフサービス式で、私はアルミのトレイにスープ、ポークとパンを取り10500ズロチ(約160円)を払い座る席を捜した。生憎何処のテーブルも開いていない。中庭の窓際に一人で腰掛けている30代半ばの男性がいたので、英語で話しかけて同席の了解を得た。

 アウシュビッツ収容所には、学童達が社会勉強の一環として訪問していた。その他外国人の訪問者も多く見られる。その男性はポーランド人で、、ワルシャワから来たと流暢な英語で話した。男性は牧師らしく、年に数回アウシュビッツを訪ね瞑想をすると言った。朝早く起き、小鳥のさえずりを聞き、ここで死んで行った人々を思い、平和を願う。「何故この様な殺害が起こったのか」「何故同じような戦争が発生するのか」「人間は何故憎しみ合い殺し合うのか」哲学の命題に近い問いかけであった。「何故人間性を重んじる宗教がこの様な虐殺を防げなかったのか」と私は男性に問いかけた。
 私はまだ到着したばかりで収容所跡を訪ねていないと話した。「よく見て欲しい」と彼の言葉に送られて、私は収容所跡へ向かった。

 管理事務所の通路を抜けると収容所となる。1945年1月、ソビエト軍により解放された当時のままの姿で目の前に表れる。高圧有刺鉄線に囲まれた30棟余りの建物群である。その周りに衛兵や管理事務所等の木造建築群がある。強制収容所の建物はオーストリア軍の兵舎として造られ、がっしりとした煉瓦製で整然と並んでいる。
 収容所の建物内には、ここに強制収容されていた人々の写真や、使われていた衣類や、日用品が無造作に展示されている。それらの品物を見ていると、ここにいた人々の苦しみ、憤(いきどうり)、絶望感が迫ってくる。写真機のフィルムに記憶するのではなく自分の眼(まなこ)で見つめ、脳裏に焼き付けるべきだと思わされた。今まで経験したことのないそれほど重苦しい所であった。

 翌日の朝早く私は目を覚ました。昨晩は熟睡出来ず寝苦しい一夜であった。しばし昨日カフェテリアで会った男性との会話を思い出していた。素早く私は起き出し収容所へ向かった。「働けば自由になる」と書かれたアーチのある正面入口から入る。朝の早い時間で観光客は一人も居らず静けさが充満していた。自分の歩く足音だけが煉瓦造りの建物に響いた。木々の葉が力無げに揺らぎ、小鳥がささやいた。朝の冷気が漂い、朝靄が薄く建物を覆っていた。昨日とは違うさらに重い気持ちが私を襲っていた。この地で死んでいった400万人といわれる犠牲者に思いを馳せた。何故か空気が淀んでいた。

 銃殺の壁前で中年の婦人が、献花され古くなった花を片づけていた。それを見て、今これらの施設は歴史博物館である安堵感を私に与えてくれた。

OSWIECIM駅
国立アウシュビッツ博物館管理棟
 
収容所入口
監視塔
 
10号棟、銃殺の壁、11号棟
収容所を囲む高圧有刺鉄線
 
焼却炉外観
焼却炉

ビルケナウ収容所を訪ねる

 アウシュビッツ収容所から北西へ歩いて40分程の所にビルケナウ収容所はある。1941年10月より建設され、規模はアウシュビッツの数十倍と大きい。各地で逮捕され貨車に乗せられた人々が、直接施設内に運ばれるように出来ている。線路は当時のまま本線と繋がっている。鉄道の線路をまたぐ陸橋より眺めると、高圧有刺鉄線で囲われたその広大な施設が見渡せる。線路に沿った道路を進むと、煉瓦造りで中央に監視塔のある特徴のある建物が見えてくる。線路は真っ直ぐにその建物の中央を貫通している。敷地内に入ると線路は分岐し、複線となり奥のガス室跡近くまで延びている。線路の右側は木造の収容施設群となり、左側は煉瓦造りの共用施設の建物が並ぶ。
 ここに到着した人々は親衛隊軍医により労働に耐えられるか選別された。残りの人々は直接ガス室に送られ殺害された。

 アウシュビッツ収容所と比べるとこの施設に訪れる人は多くはなかった。広大な施設内で長い枝の付いた鎌で草を刈る人の姿が見られた。何故かホッとすることが出来る景色であった。

 夕暮れ近くまでかかり収容施設、ガス室、焼却死体の投入された池、国際慰霊碑、共同施設等を見て回った。さらに歩いて駅に行き、翌日の汽車の時刻を確認する。駅より歩いてアウシュビッツに戻る。18時を過ぎると博物館事務棟1階にあるカフェテリアは閉店となる。博物館近辺にはレストランはなく、ホテルで食事の出来る所を聞くと駅との返事であった。仕方なく歩いて駅へ戻り、構内にあるレストランで夕食を取る。

 翌日はホテルにてクラクフ行きのバスの時刻を確認して貰い、博物館前より町の東部にあるバスターミナルへ向かう。このターミナルよりクラクフまでは1時間30分ほどであった。
 昨日の男性とはホテルを出る間際にフロント前で再会し別れを告げた。

ビルケナウ収容所入口建物
監視塔と収容建物
 
入口に繋がる線路
国際慰霊碑
犠牲者を意味する400万個の敷石
 
ガス室の残骸
ガス室の説明板
 
収容所内部
収容建物が撤去されて残る煙突

強制収容所について

 アウシュビッツ第一強制収容所は、OSWIECIM駅から南方向に徒歩で15分程の所にある。収容所の周辺は隔離された所と思われたが、そうではなく生活臭のある住宅地である。訪問する前に私が思っていたイメージとは随分違った。道路に面して大きな駐車場があり、学童などの見学者を運んできたバスが止まっている。駐車場の奥くに博物館管理事務所がある。入場は無料、ガイド等は有料である。

アウシュビッツには3カ所の収容所が造られた。
 第1収容所−−アウシュビッツ(OSWIECIM)1940−1945年
 第2収容所−−ビルケナウ(BREZEZINKA) 1941−1945年
 第3収容所−−モノヴィッツ(MONOWICE) 1942−1945年

第1収容所
 収容棟は煉瓦製の2階建で28棟あり、その内の13棟が展示室として使われている。その他、衛兵所、病院、管理事務所、台所等13棟余りがある。
この施設には資料が展示されている為見学者が一番多い。しかし収容所の規模としては3カ所の収容所の中で一番小さい。展示内容は次のようになっている。
 15棟 歴史的紹介
  4棟 虐殺
  5棟 没収された持ち物
  6棟 被移送者の日常生活
  7棟 衛生状態
 11棟 死の棟、独房、洗濯場、収容所の拡張、解放
 18棟 被抑留者の造った作品
 12−17棟 ポーランド及び周辺国についての紹介

第2収容所
 OSWIECIM駅の西方、途中の線路をまたぐ陸橋から全体が眺められる。1.75km2という広大な敷地に施設が点在する。300棟に及ぶ建物が建設されたが、現存するのは70棟余りである。管理事務所や台所等は煉瓦積みの建物で45棟が現存する。収容施設は木造で22棟が現存しているが、大半は残っていない。ここには4棟のガス室があったが、ドイツ軍撤収時に破壊され残骸だけが残っている。ガス室近くに国際慰霊碑がある。
 この施設には10万人余りが収容された。各建物は女子、男子、家族、ハンガリー、ボヘミア、隔離等の収容所に別れていた。 

第3収容所
 一部生産工場も兼ねていた施設、詳細は不明。
 

ドイツの歴史

 1933年 2月 共産党を恐れた財界、軍部の要請によりヒトラーはドイツ首相に就任
 1935年 3月 ベルサイユ条約に反しドイツ軍隊を組織、55万人規模を予定
 1935年 9月 ニュールンベルグ法を公布、ユダヤ人差別を開始
 1938年 3月 オーストリアへ侵入
 1938年 9月 チェコスロバキアへ侵入
 1939年    この年までにドイツ共産党員25万人を収容、32000人を虐殺
 1939年 3月 ボヘミア、モラビア全域を征服
 1939年 9月 ポーランド侵入、第二次世界大戦勃発
 1941年 9月 ガス室による集団虐殺の開始
 1941年10月 ソビエト軍捕虜14000人収容、その後8300人が死亡
 1944年    全国に強制収容所は1000カ所、約1000万人が殺害された
 1945年 1月 ソビエト軍により解放

もっと詳しくお知りになりたい方は此方のホームページを参照下さい。
国立アウシュビッツ博物館のホームページ:
https://en.auschwitz.org/m/ 

正面入口前の道路
衛兵所、正面入口、台所
 
収容所内の道路
収容所位置図
BREZEZINKA, OSWIECIM, MONOWICE

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