貧乏旅行の話

1.旅行中に遭った盗難事件

インド、パトナへの船中にて

フィリピンのマニラにて

メキシコ市の地下鉄にて

パリの地下鉄にて

闇ドル両替

ホテルのセーフティボックスは安全か

在外公館は役に立つのか


 旅行中で一番恐れることは事故そして病気であるが、次に恐れることは盗難に遭うことであろう。スリや置き引きに遭うのは自分の不注意とも言えるが、強盗は少し事情が違う。犯罪者が出没する地域を知り避ける必要がある。 不運にも持ち物が取られても旅行資金、パスポート、航空券さえあれば旅は続けられる。私が直接体験した盗難及び盗難にあった日本人の話である。

インド、パトナへの船中にて

 ネパールの"KATHMANDU"からインド北部の都市"PATNA"へ抜ける方法は飛行機か、バス−鉄道−船の乗り継ぎである。二都市間の距離は148km、空路だと1時間余り、陸路だと2日間は掛かる。費用は明らかに空路の方が高く、貧乏旅行では後者の陸路を選ぶことになった。この地を通ったのは1974年11月4日、同行したのは釧路市の大学生N君である。

 早朝の"KATHMANDU"から国境の町"BIRGUNJ"までは、オンボロバスで舗装の良くない道をガタガタと揺られ、4〜5の峠を越えて約11時間であった。一番標高の高い峠は2500メートル余りで、遠くに雪を抱いたヒマラヤの山々が望める。この町より国境までは約1キロ、夕闇が迫っており力車に乗る。ネパールの出入国管理事務所で出国手続きを済ませ、ここよりインドの国境までは約1キロ、細い川を渡るとインドであった。ここで入国手続きを済ませた後、近くの町"RAXAUL"まで1.5キロ余りを力車で移動する。
 その夜は鉄道駅近くの安宿に泊まることにした。食事を済ませ夜半の駅に翌朝の汽車の時刻を確認に行く。駅構内のコンクリート床には多くの家無き民がぼろをまとって寝ており、彼らを飛び越えるようにして時刻表のある場所へ進んだ。

 翌朝ホテルを早く出て駅へ向かう。Raxaul-(1時間)-Sagauli-(4時間)-Muzaffarpur-(4時間)-Sonpurまでは2回の乗り継ぎ時間を含め14時間余りであった。目的の駅には23時過ぎに着いた。遅い夕食を済ませ宿を探したが見つからず、仕方なく船着き場に向かう。駅より砂地の暗い道を歩いて10分程で船着き場に着いた。
 桟橋には明かりもない大きな外輪船が停泊しており、中からは話し声が聞こえる。注意深く中を覗きつつ声を掛けながら入って行くと、30歳過ぎのやせた男と10歳位の男の子が出てきた。親子らしきこの二人が私達を1番サロンへ案内してくれた。

 100年以上は達っている鋼鉄製の古い船で、明かりもなく幽霊船のように不気味であった。私達はこの場所を今日の塒と決めた。ガラスのない窓から月明かりが差し込み、川面を見ると大きな月が静かに揺れている。長い行動時間で疲れていた私達はその部屋の木製のベンチで寝ることにした。親子の二人ずれは少し話した後に部屋を出て行った。
 私の荷物は二つで、一つはJALの青いショルダーバック、これには一眼レフカメラ、フイルム等が入っていた。もう一つは着替え、土産品等が入ったザックである。ショルダーバックを枕にし、ザックは枕元に置き眠りについた。

 翌朝5時頃ふと目を覚まし枕元を見るとザックが無くなっていた。直ぐに飛び起きて他に取られていないか確認をする。昨晩の怪しき親子を捜しに部屋からデッキへ出ると、隅に放置されたザックを発見した。ホッとしてザックを取り部屋に戻り中身を確認している間に、何時しか船には客が乗り込み動き出していた。幸い取られた物はなく、川風にゆっくりと吹かれながら1時間余りの蒸気船での航海を楽しむことになる。

 因みにこの2日間に掛かった費用は3米国ドル、航空券は15ドル余りであった。(1ドルは約300円)

ヒマラヤの山々

フィリピンのマニラにて

 その男に私が初めて会ったのは1979年10月12日、セブからマニラへ向かう船の中である。セブ−マニラ間は船で約24時間、航空機だと1時間30分余りで時間的比較にはならない。しかし時間に急かされずゆっくりと移動する旅は心が落ち着く物である。
 船名は"M/V DON ENRIQUE"、船会社は"SULPICIO LINES. INC."、船内には"Cleanest ship of the year 1978"と誇らしげに表示されていた。しかし私にはさほど綺麗には思えなかった。船内の案内表示をよく見ると沖縄丸と書かれてある。沖縄が日本に返還されるまで、東京の晴海桟橋と沖縄の那覇間を定期的に航行していた船である。
 船室は1等の8人部屋で167ペソ(約5000円)、同じキャビンには華僑の青年と家族など金持ちそうな2〜3のグループと一緒であった。

 部屋に荷物を置き救命胴衣を確かめた後に、華僑の青年と船内を見学に出かけた。その最中に日に焼けた中肉中背の男が話しかけてきた。その男は2等の2段ベットがズラッと並ぶ船室に私を招いて粗末な不揃いの真珠を見せてくれる。日本では高く売れるなどと言っていたが私にはそうは思えなかった。この男とは時々船内で会い話をする事になる。翌朝は一緒に下船し、その翌日は"PAGSANJAN"に行く約束をした。

 翌早朝男は7歳位の娘と一緒にホテルに来た。バスターミナルより長距離路線バスに乗り3時間余りで"PAGSANJAN"へ到着する。コーヒーを飲んで一休みした後に三人でボートに乗り込んだ。一艘のボートには前と後ろに漕ぎ手がおり川上へ向かい漕ぎ出す。川の支流に入り、木々に囲まれた川幅が狭くなり、流れが早くなると漕ぎ手は川に入りボートを押す。川が蛇行し正面に小さな滝が見えた所が終点であった。ここから川下りが始まる。
 暑いマニラから来ると別世界の涼しさで、滝の近くには泳ぎを楽しむ人々がいる。涼しい滝の回りを散策した後スリル満点の川下りを楽しむ事になる。

 私達はバスにてマニラに戻り、男から遅い昼の食事に誘われたので着いてい行くことにした。男はトンドに住んでいた。路線バスは大通りを北に向かう。途中右側には塀に囲まれた立派な石造りの中国人墓地が望める。これらの墓には墓守が家族と共に住める広さがある。それと比べるとトンドの家々は狭く、その粗末さは貧富の格差を顕著に示している。
 マニラ市の北に在るトゥトゥバン駅を出た列車はトンドの中を通過する。線路の両側には窓から手が届く距離にバラックが建ち並び、裸電球が部屋の真ん中に灯っている。以前私が乗った"LEGASPI"行きの夜行列車は左右に大きく揺れながら警笛を鳴らしゆっくりと走りぬけて行った。

 大通りから路地を入った右側に男の家はあった。男の家は線路沿いの家と比べると随分ましな方で、家には男の妻や、姉らがいた。家人に挨拶した後室内を見回すと、室内はかたずいており少ないながら家具も揃っていた。促されるままにテーブルに座り食事をご馳走になる。この家族はキリスト教徒らしく食事の前には全員でお祈りをしていた。私も彼らに習い胸の前に手を合わせた。
 食事の後に男は今日のお礼として鮫の顎と、古い木製の顔形壁掛けをくれた。夕刻、私は他に約束があったので帰ることにする。男は用があるとかで一緒に着いて来ることになった。

 私はリサール公園前のホテルに戻り男を部屋で待たしている間にシャワーを浴びた。その最中に男は私の名を呼びたばこを買ってくると言ったのである。私は不審に思い浴室から即座に出た。部屋には男の姿はなく机に置いた一眼レフカメラが無くなっていた。私は直ぐに下着を着け部屋の外に出てエレベータを見た。エレベータは8階から下に向かって動いていた。私は階段から後を追おうとして駆け出すが、途中にシャッターがあり通れない。仕方なく私は走って部屋に戻り、服を着てエレベータで下に降りる。
 男が向かいそうな方向を走りながら捜したが時すでに遅く、見つけることが出来なかった。近くのヒルトンホテルのガードマンに事情を話すと、彼は私を近くの警察署まで連れていってくれた。

 警察署の入口で事情を話し左手にある受付で詳細を話した。受付の警察官は私の話をノートに記録し、丁度室から出てきた男に相談に乗るよう指示を出した。その警察官の名前はSequndino BAUTISTA、私服警官なのかジイーンズにTシャツ姿で少し出た腹に短銃を挿している。
 彼と共にタクシーに乗り男の家へ向かった。しかし外はもう暗くゴミゴミとしたトンドでは場所がはっきりと解らなかった。迷った末に船で会ったケソン市に住む男に会いに行く。彼に事情を話したが男の住所は解らず、八方塞がりになった私達は一旦私のホテルに3人で戻ることにした。
 翌日は私の出発日であった為に十分な時間は取れず、"PAGSANJAN"で撮ったフイルムに男の写真があるので送る約束をする。そして遅くなったのでその場は別れることにした。気落ちしている私を彼らは慰めてくれた。

 その翌年の10月、私は再度マニラを訪問し警察に行きSequndino BAUTISTAに会うことになる。しかし送った写真は受け取っていないとの返事で、捜査の進展は望むべくもなかった。この再会は夕刻であり近くのレストランに行き、ビールを飲みながら話すことにした。彼の奥さんが歌手で数度日本に行った事や、家族の話などをして別かれる。

WANTED Dead or Alive
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舟乗り場

メキシコ市の地下鉄にて

 私が初めてメキシコを訪ねたのは1996年10月のことである。10月5日、日本を発ちメキシコ市に2泊した後 VILLAHERMOSA - PALENQUE - CAMPECHE - UXMAL - MERIDA - CHICHEN ITZA - CANCUN - TULUM とユカタン半島を10日間かけて回りメキシコ市を離れる前日の17日であった。私は"Zocalo"の北側にあるホテルに泊まっていた。その日は"Tula"へ遺跡を見に行くことに決めた。"Zocalo"から地下鉄で北部バスターミナルへ行き、ここからバスに乗り"Tula"へ向かった。
 バスターミナルでは"OVNI BUS"と言うバス会社の切符を購入したが、手書きでN$29と金額が書き直してあるように見えた。帰りも同じバス会社を利用したので料金の違いは明らかであった。男の窓口係が10ペソ(約150円)を正規料金の知らない外国人から騙し取ったというせこい行為であった。

 海外に行くと旅行者であるが為に現地の人とは違う金額を請求されることは多々ある。交通機関など約束された金額をあらかじめ知っていればその金額を黙って払うことで相手も納得する。しかし知らずに乗る前に確認すると数倍の金額を提示されることがある。他に釣り銭を誤魔化すとか、使えなくなった古い紙幣を渡すなど旅行者に解りにくい行為をする輩もいる。
 メキシコではバスの車掌も徴収した金額を誤魔化すらしく、長距離バスの場合途中で係員が乗り込んできて販売した切符と乗客数を確認している。

 "Tula"の町には1時間余りで到着し、食事を済ませ遺跡へはタクシーで向かった。入口の博物館を抜け真っ直ぐ進んでいくとビラミッドの上にテラモンが見えて来る。現地にあるテラモンは模造品で本物はメキシコ市の博物館に展示されてある。しかし遺跡で見るテラモンは自然の緑の山と、青い空を背景にして威厳を示している。宮殿跡、球技場跡などを見学して帰途についた。博物館前にタクシーは止まって無くバスの停留所を探しながら来た道を歩いて行く。やっと来た混雑したバスに乗りバスターミナルへ、そこからメキシコ市行きに乗り北部バスターミナルへ戻った。バスターミナルの出口ではタクシーの呼び込みがあったが地下鉄にした。

 北部バスターミナルから"Zocalo"までは7駅で途中2回の乗り換えがある。夕刻で2回目の乗換駅"Hidalgo"は随分混んでいた。私は混雑時の地下鉄の危うさを感じていたので混んでいる電車をやり過ごした。次に来た電車はそう混んでなくホームも先ほどより空いていたので様子を見ながらなるべく空いている車両の方へ移動した。人に挟まれないように最後に乗ろうとしたが人が背後に来た。私は乗るのを止めようとしたが数人に強引に押し込まれ完全に餌食になったことを悟った。
 電車のドアが閉まると背後から数本の手が伸びてきて、胸のポケットの財布を盗ろうとして来た。私は左の肩にカメラの入ったザックを持ちこれも庇いながら左手で左の雨蓋の付いたポケットの財布を押さえた。そして空いている右手で手を払い除けようとしたが太い手を払いのけられず、たった一駅の間(数分)にまんまと500ペソ(約8000円)が入った財布は盗られた。ドアが開くと共に奴らは走るようにして居なくなった。私の周りには誰も居なくなり下に落ちたクロスボールペンを拾う。

 私は沸々と怒りが沸いて来て電車の中で叫き散らした。その様子を見ていた乗客はある方向を指し警官が居るような反応を示したが、私はそのまま電車に乗り続け目的の駅"Zocalo"で下車した。駅構内の案内カウンターに居た3人の係員に今遭った盗難を話したが記録することもなく、為す術が無いという対応であった。混雑時にはスリが多く、痴漢の被害が多いと女性の係員は話していた。ザックを持ったほとんどの人は背負わず前に抱えている。物を盗られなく、痴漢をガードする方法なのであろう。

 今日の食事代、飲み代と明日の空港へのタクシー代を失い、外へ出る気を無くした私はホテルで食事をし、メキシコ市での最後の夜をバーでギターを聞きながらテキーラを味わった。やるせなく酔いが私を襲った。

Tulaのテラモン
Zocaloのカテドラル前で

パリの地下鉄にて

 パリではユースホステルに泊まっており、市心に出るには地下鉄を使っていた。その日は10時過ぎにホステルを日本人で九州出身の大学生T君と30代後半の中国人の3人で出かけた。凱旋門を見学した後昼食を済ませ、シャンゼリゼ通りをぶらつき1件のカフェに入って休んだところT君が旅券と旅行小切手がなくなったと言い出した。彼はジャケットを着ており左側のポケットがかみそりで切られた跡があった。3人が一緒にいた状況で考えられるのは地下鉄の中ぐらいである。彼は直ぐに事故手続き(警察へ盗難届、領事館へ旅券の再発行、銀行へ旅行小切手の再発行)をするためにホステルに戻っていった。

 パリではルーブル美術館やその他の観光施設前でカメラを構えフラッシュを発光させ旅行者に高額を要求する恐喝やスリが出没していた。モナリザの前で会った中年の日本人男性は160フラン(約10,000円)を脅し取られたと話していた。
 

闇ドル両替

 貧乏旅行者にとって米ドルを如何に高く現地通貨に両替するかは死活問題であった。皆限られた資金で出来るだけ長く外国に滞在したいと考えていた。南アメリカの或国では闇両替は公定レートの10倍を越す国も有ったという。しかし一般的には1.2から2倍ぐらいの物である。それでも危険を冒し闇両替をすることになる。
 闇と名が付く両替は国によっては犯罪行為である。両替時に遭遇する犯罪もその地域により様々であった。

 事例1:街角で両替をしている最中にポリスが来たと誰かが叫び、ドル紙幣を相手に戻し現地通貨を受け取り逃げる。このドル紙幣が1ドル札に変わっている。

 事例2:街角で紙幣を交換した後に、もう一度現地紙幣を確認させてほしいと言ってドル紙幣を戻すがこれが偽札に変わっている。
 これは1985年9月にフィリッピンのマニラ市内マビニ通りで体験したことで、相手は中年の男女であった。最初近くのいかがわしい暗い建屋内に入ろうとしたので拒否した。両替時に近くに止めてあった車から何かを出す不審な行為があり、受け取った紙幣の感触がおかしく偽札と直ぐ解り相手の手を掴み大きな声を出し、相手を威嚇し本物の100ドル紙幣を戻させた。その時女も強かで叫び声を上げていた。

 事例3:両替時に渡す金額を誤魔化す、古くなった使えない紙幣を渡すなどある。

 中国でも旅行者が持つ兌換券と人民元の闇両替をしていた。外国人は兌換券を使うことになっていたが、実際は外国人用ホテルなど以外は利用できた。兌換券は中国のWTO加入により1994年1月に廃止となる。しかし深川の町では香港ドルが使えるなど(銀行で両替)二重構造は現在も残っている。

マニラの中華街入口
マニラ、トゥトゥバン駅

ホテルのセーフティボックスは安全か

 マヨン火山が近くに見えるフィリピン、ルソン島の南部"LEGASPI"の空港カウンターで、私はその日本人青年に会う。彼はマニラに戻るための航空券を買おうとしていた。航空会社の係員に言葉が通じないようで、其処に居合わせた私が代わりに行き先を説明した。さらにキャンペーン中の25パーセント割引で、航空券が購入できるように話をつける。

 その彼が泊まったマニラ市内のホテルでの話である。
 ホテルのフロントに設置されたセーフティボックスに現金と旅行小切手を預け、出発する時に出してもらったがそれらが無くなっていた。警察にも連絡したが埒が開ず、現金は少なかったのでそのままになったと言う。

 この日本人の対処には幾つかの問題点がみられる。
 1.言葉が十分に通じない。
 2.ホテル側の安全管理を追求し責任を取らせていない。
 3.旅行中で直ぐに移動した。
 その辺を甘く見られての従業員の犯行なのであろう。

 セーフティボックスの種類
 ホテルのセーフティボックスにはいろいろな形がある。
 1.フロントに設置した引き出し式金庫−各鍵は両者が管理
   合鍵の管理が心配。

 2.フロントに設置した引き出し式金庫−鍵は従業員が管理
   従業員を信用するしかない。

 3.部屋にくくり付けの金庫−鍵は自分で管理
   壁はめ込式金庫、手提げ金庫、平置金庫、日本に多いが金庫ごと持って行かれる可能性あり。合鍵で開けられる可能性あり。金庫を利用するには保険金を取るホテルもある。

 4.封筒に入れて封印しホテルの金庫に預ける
   従業員やホテルを信用するしかない。

 何れにしてもホテルの従業員が犯罪に絡んだ場合や紛失した場合、言葉の通じない外国で被害額を如何に証明するかが問題であろう。

レガスピ空港とマヨン火山

在外公館は役に立つのか

 2000年10月、3週間スペインへ行く予定があり治安状況を調べた。LONELY PLANET, CIA FACT BOOK, それと外務省の海外安全情報でこの情報によると1年間に1000件の日本人被害報告があるとされる。これはパスポートなどの盗難で、領事館などに報告され把握できた被害件数と思われる。領事館などに報告されていない件数はこれの数倍から数十倍はあると考えられる。
 私は盗難事件などで領事館を訪ねたことはなく、安全情報を得るために行ったこともない。日本の新聞や雑誌を読みに数カ国の領事館へ行ったのみである。手紙の預かりはしてくれるようであるが、私は旅行代理店や日本航空にお願いした。

 多くの外国の領事館には観光ビザを取得に訪問した。中近東、アジアの国々はビザが必要であった。ビザを2日で発行してくれる所から、本国照会で1週間以上の期間が必要な所まである。親切な所、事務的な所といろいろである。領事館は海外におけるその国の窓口であるから最初の印象をそこから得ることになる。

 在外公館は政治家や日本株式会社の出先機関化しており、一般人や特に貧乏旅行者には冷たいという評判がある。今回の外務省機密費不正流用問題で、税金を私物化した暗部の一部が明らかになったが、在外公館も同じ状況であろう。政治家、政府関係者、大企業への対応と一般人への対応は大きな格差を感じる。

 昔から日本の在外公館の情報収集能力は低く、事件や紛争が起きた時の判断や対処も遅い為、日本人がその国から脱出出来なかったこともある。

 パスポートの最初に書いてある言葉である。
 ”日本国民である本旅券の所持人を通路故障なく旅行させ、かつ、同人に必要な保護扶助を与えられるよう、関係の諸官に要請する。

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